1. 岩倉使節に合流

1871年10月に、教育システムの調査でヨーロッパへ渡った畠山は、岩倉使節に合流のため、フランスからアメリカへの帰国を命じられる。

畠山と同時に、大蔵省関係でヨーロッパに渡っていたモンソン組留学生きっての優等生、大原令之助こと、後の初代日銀総裁、吉原重俊にも同じく岩倉使節合流の命令が下り、畠山と吉原は同じ船でリバプールからNYへ戻って来る。NY着は1872年1月28日である。 続きを読む 1. 岩倉使節に合流

2. 畠山の米国帰国

岩倉使節到着の前年、教育取調べの名目でヨーロッパへ行った畠山は、確かに教育関係の仕事をしていたようだ。

「杉浦弘蔵メモ」に、71年の12月18日付として「英国留学生取締意見書」が載っている。内容は、主に、イギリスで学生監督にあたる者が必要だということと、留学生の監督に対する提案である。そういうことを書くのだから、畠山がそういう仕事をアメリカでしていたのだろう。しかし、フランスまで行って、岩倉使節に合流するために、再度アメリカへ戻ってくる。 続きを読む 2. 畠山の米国帰国

3. 森vs木戸バトル

明治になってから、渡って来た石橋を叩く傾向を強めた木戸孝允は、条約改正決行案の出た当初から、条約改正決行は尚早ではないか、と思い悩む。そうこうするうちに、大久保と伊藤が急遽帰国して不在になり、いよいよ森や伊藤の一派に引きずられたのではないか、という思いを濃くして行く。それでなくとも、洋行経験のある元幕府の書記官たちや、現地の留学生の西洋かぶれぶりに辟易していた木戸と、森は対立する。木戸がこの頃、ワシントンで森に憤慨している様子は、木戸日記にもあるのでよく知られている。 続きを読む 3. 森vs木戸バトル

4. 使節到着後の森と畠山

証拠はないので、あくまでも想像だが、この森vs木戸バトルでの畠山の貢献は大きいはずだ、と思っている。

木戸がプライベートに畠山と懇意になっていくことが、森が仕事を投げ出して帰国するという無謀も、木戸が感情に任せて有能な外交官を更迭するという軽挙も阻止したと思うからだ。 続きを読む 4. 使節到着後の森と畠山

5. 森の出世に対する畠山の貢献

自分の決して短くない人生の中の一般論として、森と畠山とどっちが知られているか、というと、圧倒的に森である。その間、森の偉人度(?)に畠山が貢献しているという話は見たことがない。森と畠山の間のやりとりの記録は見たことがない(存在しないと思う)ので、ここも全面的に想像で語ってしまうが、森が偉人枠として畠山よりもずっといい位置にいることには、畠山が貢献していると思う。 続きを読む 5. 森の出世に対する畠山の貢献

6. 憲法勉強会と木戸孝允との出会い

畠山が合流したワシントンでは、正式権限の不足で条約改正交渉に待ったがかかり、伊藤、大久保は天皇からの正式委任を取りに一時帰国する。結局、条約改正は断念するので、彼等の日本往復は無駄足になる感もあるが、二人を待つ時間的ロスを有意義に活用せんと考えた木戸孝允は、個人教授(後に開成学校にやってくるパーソン教授)について英語を学び、畠山と久米の憲法翻訳会に参加する。これにより、久米、畠山の下級随行員が、木戸というトップ官僚に、図らずも急接近することになる。 続きを読む 6. 憲法勉強会と木戸孝允との出会い

8. NYタイムスの取材

話が時間的にやや戻るが、岩倉使節の条約改正交渉は、ユタでの足止め期間中に、交渉だけでなく、改正した条約に調印する、という方向に変わっていたが、日本政府からの正式な委任がないということで中断し、大久保と伊藤が急遽、勅令を取りに帰国するはめになる。

このとき、畠山は、帰国する大久保や、随行する吉原らと共にNYにいて、セントニコラスホテルでNY Timesの取材に遭っている。 続きを読む 8. NYタイムスの取材

森有礼と畠山の関係を考える

そういう証拠はないので、あくまでも想像だが、岩倉使節在米時の森vs木戸バトルでの畠山の貢献度は大きい。

木戸がプライベートに畠山と懇意になっていくことが、森が仕事を投げ出して帰国するという無謀も、木戸が感情に任せて有能な外交官を更迭するという軽挙も阻止したと思うからだ。 続きを読む 森有礼と畠山の関係を考える