松陰が日本語で書いた船員への手紙 画像

これは、通詞のサミュエル・ウェルス・ウィリアムは候文が読めないため、英語訳がなく、日本語(松陰のかいたもの)のままアメリカ側に渡ったと見込まれている。

<英文和訳>

我々2名は世界を見たいと望む者です。どうぞ、貴船に我々を乗せて下さい。
外国への渡航は、然しながら、日本で固く禁じられている行為です。
もし、あなた方が日本の役人に連絡したならば、我々にとって深刻な問題となるでしょう。
貴提督方に我々の望むところをお許し頂けるのであれば、明日の夜遅く、柿崎村の浜に伝馬船を1艘送ってお迎え下さい。

1854年4月19日

市木公太
瓜中萬二

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<フリガナ読み下し>

我等両人、世界見物いたしたく候あいだ
その御船へ内密に乗り込ませくれられよ
尤も、異国へ渡ることは日本の大禁につき、このことを日本の役人たちへ御話なされ候ては
甚だ当惑つかまつり候
右のおもむき、御大将方、御せいいん候はば、明晩夜更けて柿崎村の浜辺へ伝馬舟一艘御寄せ候て、
御迎い候よう頼みたてまつり候

甲寅3月23日

市木公太
瓜中萬二


吉田松陰の請願書 画像

これはサミュエル・ウェルス・ウィリアムスの中国人通訳、羅森(ルオ・セン)の写し

<英文和訳>(日本語通訳のサミュエル・ウェルス・ウィリアムスが上記中国語を英文にしたものの和訳)

日本国江戸よりの二名の学者、本書を御艦隊大臣各将官に贈る。我々は、自身が小さく取るに足らないものであるごとく、わずかで些細な禄を食み、武器の扱いにも長けず、戦法や軍隊の規律を説くに及ばず、無駄に時を過ごしているものとして、慎んでまかり出る者です。しかしながら、書に学び、欧州、米国の習慣や教育について風聞を得、幾年もにわたり、「偉大なる五大陸」への旅を願ってきましたが、わが国の法により、渡航の港は悉く厳しい制限が敷かれており、外国人の入国も、日本人の出国も固く禁じられています。そのため、我々の海外渡航の夢は、息を塞がれ、足かせをはめられたごとくに、胸の中を去来するのみです。 幸いにも、この度、領海に貴艦隊の来訪を見、滞在も長きに及んでいるため、知識を深める喜びや、詳しく視察する機会を得、貴公方の親愛と自由なお心を十分 に知り、長年の思いは、ここについに発さんとするに至りました。

即ち、今こそが思いの決行に及ぶ時と知り、我々は五大陸を巡るべく、わが国法には幾らかのもとるところがあれども、この密書にて、貴公方の出港時に我々を乗船頂く旨、要望を呈上致します。我々の望みを叶えて頂くにあたっては、貴艦隊の大臣各将官を落胆させぬよう、船上にてはいかなる任務も喜んで引き受け、いかなる命令にも従うことを約束致します。足なえが歩く人を見れば、我もまた歩きたいと思うのは当然のことですが、その歩む者が馬に乗って往く者を見たなら、歩けることにことに満足するでしょうか?我々はその全生命をかけて右往左往していますが、東西に30度、南北に25度しか進めず、しかし、今、こうして貴公方が風雨を裂き、波涛を割って航海し、稲妻の速さで見渡す限りの海里を進み、五大陸を行くのを見ては、足なえが歩くことを望み、歩く者が馬上に往く者を見るのと、いかに比較できるでしょう。もし、貴艦隊大臣各将官が我等の望みをご考慮頂けるのであれば、その有難きご好意に厚く感謝いたしますが、我国法の禁は確かに存在するため、この企てが明るみに出れば、我々は必ずや処刑され、貴公が持つ深い人間性と親愛の情に、大いなる後悔を与えるものとなりましょう。もし、この望みをお受け頂けるのであれば、我が国の捕吏が、追うに無駄と諦めるべく、出港される折までは、我々の生死にかかわる危険を避けるた め、「我々の企ての過ちを密に秘し」て下さい。言葉では気持ちを充分に伝えることができませんが、以上は我々の心よりなる真実でありますので、どうか疑ったり、望みを打ち砕いたりなさいませぬよう。両人、慎んで、本書状をお渡しいたします。

4月11日(日本嘉永7年3月8日)

記(この画像はない)

ここにある書状は、我々の長年の真実なる望みです。横浜からも闇の中を釣り船に乗って何度も貴艦隊に近付こうと試みましたが、船体が厚く、他に停泊の小船もなく、なすすべを知りませんでした。その後、艦隊は下田に停泊すると賜り、小舟に乗って近付く企てを行いましたが、成功に至りませんでした。貴戦艦が我々の望みをお受け下さると信じ、明晩、辺りの寝静まるを待って、人家のない柿崎の浜に小舟でお待ち申し上げます。どうか、我々をお連れ頂き、この願いの実る ことを願ってやみません。

4月25日

(以上、和訳byながみみ)

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この請願書(英語でPetition。松陰は自書の「回顧録」等で投夷書といっている)と、それに付随するメモは、ペリー艦隊に通訳としてついていたサミュエル・ウェルス・ウィリアムスの多くの書類の一部として、エール大学スターリング・メモリアル図書館に所蔵されていたものから、近年発見されたもの。

冒頭のメモが松陰の手書きと言われている。請願書と、それに付随するメモ(記)は、通訳の羅森が松陰の漢文を書き写したものとされ、松陰の手書きはない。松陰の「回顧録」では、願いを聞き入れないなら返してくれと言っているので、返してもらったのかも知れない。アメリカでは、松陰自身は写しを持っていたの で、日本にその原文があるとしている。冒頭のメモは、船に近付くにあったって、浜で出会った船員に渡したものであったが、ウィリアムスは候文が読めなかったため、後学のために米国まで持ち帰られたものらしい。候文は読めなかったが、フリガナがついていたので、言わんとするところは理解でき、また、二人の偽名も読めたという。

漢文は全然読めないので、羅森が写した中国語をウィリアムスが英語にしたものを、上記、日本語に翻訳した。

これを読むと、本人が回顧録で言っているよりも、大分下手に出ている。しかし、よく意味のわからない足なえと、歩く人、馬上の人の対比などがあって、日本的、或いは東洋的な文学の匂いも漂い、簡潔にして言いたいことを伝えていて、松陰の文章にはじめて出会ったようで嬉しい(漢文で書いた文は、訳文がないと読めないかんね)。ただ、請願書の冒頭の、へりくだりはいらないと思う。そんなにとるに足らないような者をなんとかしようとは思わない....多分。兵法の知識はない、と述べることで、なんか危害を加えたりはしないし、怪しいことを考えているのではない、ということを訴えるのかな?と思ったら、そうではなく、若輩であるということを伝えんとしたものらしいので、あら?と思ってしまった。

戦略としては、自分だったら、アメリカに行って、きみらの優れた文化を学びたいのだ!ということの訴えに終始する。あと、文の流れとして、せっかく松陰はそういうつもりなので、捕まって殺されることを恐れる者ではないが、無駄に殺されるのなら、船上で下働きをさせられて全く構わないから、連れて行ってくれ、という書き方をした方が良かったのではないかと思う。私が殺されたら後悔しますよ、と慈悲にすがるよりも、「そういう命の無駄使いを強いるよりも、二人船員を増やした方が得だ」という方がアメリカ人にはアピールする。恐らく、侍を二人連れて行くよりは、船乗りを二人、中国人と偽って乗せて行ってくれ....と言った方が、成功の確率は高かったのではないだろうか。

とはいえ、アメリカ人なんか、全然知らないで書いているのだから、150年も後でこんなことを言っててもはじまらないのだが、この手紙を持って現れた松陰 が、毅然としつつも物腰が穏やかであることは、アメリカ人の心証を良くしたものらしい。また、請願書はきれいなマンダリン(中国語。現在マンダリンという と北京話のことだが、この時代、どの中国語を指すか知らない)で書かれていて、学のある人という見方をされている。日本との条約締結の微妙な時期なので、 連れては行けないとされたが、ペリーは船乗りを二人くらい連れて行って、その後なんか問題になっても、どうにかできる人だったと思うので、侍階級の学者が二人なのがまずかったのではないかと、わたくし思いますです、松陰先生。

尚、中国人の通訳であったルオ・センもこのときのことを書き残しているとのこと。どうも、日本語版があるようだが、ちゃんと探したことがないので、まだ持っていません。中国語で書いてあっても読めないので、英語版をみつけたら紹介します。

 

吉田松陰の乗船希望の手紙と嘆願書

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