4. 使節到着後の森と畠山

証拠はないので、あくまでも想像だが、この森vs木戸バトルでの畠山の貢献は大きいはずだ、と思っている。

木戸がプライベートに畠山と懇意になっていくことが、森が仕事を投げ出して帰国するという無謀も、木戸が感情に任せて有能な外交官を更迭するという軽挙も阻止したと思うからだ。

アメリカ人の関係者にとって、森の存在は岩倉使節が考えるよりも大きい。木戸がムカついたくらいで森が任務途中で帰国してしまうのは、極めて軽率である。畠山が木戸と森の両方に近しく、図らずも木戸と森の中和役を務めたであろうことは、大いなる幸いであったのだ。

恐らく畠山は、森が木戸の感情を逆撫でて、急進的な意見で顔面直撃してくるのに反して、天候気候のご機嫌伺いから入って、木戸の愛する花鳥風月も語りながら、西洋で身に付けた知識を平明に伝え、折々には自分の考えも話す、という木戸の好みにそった交際が出来たのだろう。

例えば、日本語をアルファベットにするような極端な森の意見も、西洋の考えを輸入するのであれば、その言語は読めるべきだ、という要点として、折りを見て、木戸に伝えることが畠山にはできたのだろう。性質が温和な畠山が、感情の昂っていないときに言うのであれば、斬新な意見だからということだけで無闇に拒否する木戸ではない。森が期待以上の仕事をしているということは、森の無礼に腹が立っても、政府のトップとして理解しなけばならないし、それが理解できない木戸でもない。

畠山の存在は、感情だけで森を評価してはいかんなぁ、と木戸が思い直す役割も果たしたのに違いない。

畠山に対する森の気持ち(想像)

これもまた想像だが、森は畠山を好いてはいなかったと自分は思う。

ハリス教団に関する部分は不明だが、森は畠山を「人間として欠けたところのない人」と称しながら、「それは違うと言うことが出来なかった」とも言っているらしい。

それは違う、と自分の意見を明らかにするところに意義を感じるのが森らしい。森にとっては、箸の上げ下ろしに誤りがなく、臨機応変な態度で咀嚼された意見を述べる畠山は、いかにももっさりしていて、どっちつかずで歯がゆかったことだろう。

要するに、森と畠山は、意見そのものが違うのでなく、そのプレゼンが異なるわけだ。

久米の談で、牛と羊とどちらが好きか、と詰め寄られ、実はどっちも好きでもない岩倉が答えに窮するのを、大久保が見ていて、どんどん質問が難しくなってきた、と小声でつぶやいて隣に座った久米を笑わせる話がある。講談社学術文庫の「大久保利通」にも、久米の「90年回顧録」にも出てくるので、余程おかしかったのだろう。

そのエピソードを例に、アメリカ人というのは、中間の曖昧を許さない、と久米は分析している。これは長年アメリカに住んでいる自分もつくづくそう思う。久米は、更に、それが客を完璧にもてなしたい好意から出ていることも理解している。西洋人に対する情報にあふれた現代でも、これほど短期間にアメリカ人の核心を掴む日本人は少ないだろう。

確かにアメリカ人というのは中間の曖昧を許さない。実は許さないのでなく、中間があると教わらないだけなのだが、つきつめるとそれは、神か悪魔の二極性ということだ。だから民主党と共和党の二極政治が可能なのだ。あらゆることに対して、賛成か反対かを迫ってくる人々であるのは確かにそうだ。日本人にありがちな「どっちでもない」ないし「どっちでもいい」というのは数に入らない。

森は、その、YesかNoかを曖昧にしない態度が性に合い、畠山は西洋の生活に慣れているのとは別に、心情的には多分に久米的で、どっちも可という、中間が広い東洋の価値観にあったのだろう。畠山はブロクトン時代、森と鮫島が突然、畠山には何の断りもなく帰国してしまったことを聞いて、驚きながらも、それに憤るよりも、むしろ愉快だと言うような人だ。畠山には森のいい分は苦にはならないが、白黒はっきりさせたい森には、畠山はどっちつかずに思えてじれったいはずだ。

幕末最末期の戦乱の話を聞いて、人民が飢えることを真っ先に案じている畠山のものの見方は、多分に殿様的で、いかにもいずれ為政者側に立つ者として生まれ育った人間のものだ。しかし、明治維新のように急変する時代は、それ以前を完全に否定するような下克上のパワーなくしては成立し得ない。畠山の性格では、平和な時代の聡明にして温厚な、善き統治者にはなるだろうが、改革期のリーダーには物足りない。この時代に必要なのは、時代をそのまま表現したようなアラビア馬であって、彼等の無謀にも思えるパワーが時代を引っ張って行く。ついて来ない者などどうでもよく、進んでいく先だけを見て走って行く彼等なくして、時代は変わらない。

森はその先頭にいて、先頭たらんと自負している若者である。森は、善き殿様も含めて、江戸時代を丸ごと払拭する価値観にある。ものごとを穏便に、総括的に進めようとする「善き殿様」的な畠山は、森にとってはむしろ、西洋のことはわかっているはずだから、その分余計に、鬱陶しい存在であったのではないか、と自分は思う。

なぜかといえば、おそらく、森には畠山がじれったいし、鬱陶しいし、どっか行っててもらいたい、と思いながら、そばにいれば、きっと畠山をあてにもしてしまうからだろう。

議論というのは、「それは違うだろ!」と言われるから口論になるのであって、「うーん、それもそーだなぁ」と言われてしまうと、反論はし辛い。じゃ、自分に賛成なのだと理解して、そーだろ?そーだろ?と自分の意見を押し進めていくと、「でも、そういう言い方すると、おっさんたちは聞かないかも」と言われる。それもそうかも、とも思っているうちに、話題は別のことになってしまう、ということはありがちだ。後々考えると、木戸が聞くか聞かないかの話じゃなくて、オレの意見の話だろ!と消化不良を起こすのだが、究極的には、自分にはそんなまわりくどい言い方をするのは無理….とも思い、「じゃ、畠山さん言ってよ」ということになってしまうのだろう。

森は、久米と畠山の憲法談義に口を挟んだりもしているようだから、つき合いたくないのでもない。自分より年も身分も上なのに、特別エラそうにもしないから、余計に普段使わない気を使ったりもするのが面倒でもあり、有り難くもある。好きではないが嫌う理由もなく、いればウザいがいないと困る。賛成はしないが反論も出来ない。
要するに森は畠山が苦手なのだろう、と自分は思っている。

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