三里塚御料牧場

成田空港からほど近い三里塚に、三里塚記念公園というものがある。三里塚というと成田空港の反対運動を思い浮かべるが、その昔は皇室の御料牧場があった。ここを畠山が訪ねたのではないか、と思っていた。

というのは、1875年8月にマーリー夫妻との日光旅行から戻った畠山は、マーサ夫人の手紙によると、戻ってすぐの8月21日に再び出張に出かけている。しばらくの休暇を共にしたマーサは、ダンナであるマーリーと馬で走って行って、狩りをしたりする楽しげな畠山に喜び、留守がちな二人がびっちり一緒にいた旅に慣れてしまったのだろう、従妹への手紙の中で、畠山がいないので「死ぬほど寂しい」と言っている。

そこで、畠山の出張は、果たしてどこであったのか、と思い、公文書館アーカイブでこの日近辺の記事を調べていると、大久保が千葉の牧場視察に行っていることがわかった。

先に結論を言うと、恐らく畠山の行き先は御料牧場ではなく京都なのだが、そこに到達する前に、成田空港に近いこともあって御料牧場を訪問したので、以下、そのときのはなしです。

<その後の追記:AP>

ここに出てくるアップ・ジョーンズだが、APはウェールズ語の「son of」とのこと。従って、姓の一部ではあるがfirst nameではない。アップと書くよりもAPとすべきなので改めました。

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憲法勉強会と「ソサエティ」に関するむだばなし

旧サイトに書いていた「むだばなし」をしまったまま忘れてしまったので、引っ張り出します。 (^^;)

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久米のこの頃の回顧談で、憲法を翻訳する苦心として、ヘディアス・コープスなんぞは最早訳しようがないということでそのままにした、という話があるが、そこに、「政府の用はジャスティスとソサエティと解したが、このソサエティという訳語が考え付かなかった」という話が出てくる。(久米博士九十年回顧録)
それを彼等は、義と仁と理解したが、それでは簡単すぎるので、ジャスティスを正義とし、ソサエティはなんぞや、と苦しんだところ、森が、そーゆーのはカナのまんまにしとけ、と言ったので、久米と畠山は、それじゃ翻訳にならない、と言った、という話である。森が久米と畠山の議論に口を挟んでいるのが面白い。森は別に畠山と仲が悪かったりするのでもないことがわかる。

しかし、ここで自分も理解に苦しんだ。アメリカの憲法に「ソサエティ」という言葉は出てこない。Bill of Rights(権利章典。憲法修正の1~10条まで)にも、それより後の修正条文の方にもない。それに加えて、義と仁だというが、societyに「仁」の意味があるだろうか。仁というと、キリスト教的にはloveではないか?と思うのだが、憲法でそんなことは言っていないだろう。或いは、久米の記憶違いだろうか。仁に近くて、政府が提供するものというと、憲法にある言葉であれば、welfareなら近いのだが、welfareなら「施し」と訳しそうなものだ。 続きを読む 憲法勉強会と「ソサエティ」に関するむだばなし

1. 岩倉使節に合流

1871年10月に、教育システムの調査でヨーロッパへ渡った畠山は、岩倉使節に合流のため、フランスからアメリカへの帰国を命じられる。

畠山と同時に、大蔵省関係でヨーロッパに渡っていたモンソン組留学生きっての優等生、大原令之助こと、後の初代日銀総裁、吉原重俊にも同じく岩倉使節合流の命令が下り、畠山と吉原は同じ船でリバプールからNYへ戻って来る。NY着は1872年1月28日である。 続きを読む 1. 岩倉使節に合流

2. 畠山の米国帰国

岩倉使節到着の前年、教育取調べの名目でヨーロッパへ行った畠山は、確かに教育関係の仕事をしていたようだ。

「杉浦弘蔵メモ」に、71年の12月18日付として「英国留学生取締意見書」が載っている。内容は、主に、イギリスで学生監督にあたる者が必要だということと、留学生の監督に対する提案である。そういうことを書くのだから、畠山がそういう仕事をアメリカでしていたのだろう。しかし、フランスまで行って、岩倉使節に合流するために、再度アメリカへ戻ってくる。 続きを読む 2. 畠山の米国帰国

3. 森vs木戸バトル

明治になってから、渡って来た石橋を叩く傾向を強めた木戸孝允は、条約改正決行案の出た当初から、条約改正決行は尚早ではないか、と思い悩む。そうこうするうちに、大久保と伊藤が急遽帰国して不在になり、いよいよ森や伊藤の一派に引きずられたのではないか、という思いを濃くして行く。それでなくとも、洋行経験のある元幕府の書記官たちや、現地の留学生の西洋かぶれぶりに辟易していた木戸と、森は対立する。木戸がこの頃、ワシントンで森に憤慨している様子は、木戸日記にもあるのでよく知られている。 続きを読む 3. 森vs木戸バトル

4. 使節到着後の森と畠山

証拠はないので、あくまでも想像だが、この森vs木戸バトルでの畠山の貢献は大きいはずだ、と思っている。

木戸がプライベートに畠山と懇意になっていくことが、森が仕事を投げ出して帰国するという無謀も、木戸が感情に任せて有能な外交官を更迭するという軽挙も阻止したと思うからだ。 続きを読む 4. 使節到着後の森と畠山

5. 森の出世に対する畠山の貢献

自分の決して短くない人生の中の一般論として、森と畠山とどっちが知られているか、というと、圧倒的に森である。その間、森の偉人度(?)に畠山が貢献しているという話は見たことがない。森と畠山の間のやりとりの記録は見たことがない(存在しないと思う)ので、ここも全面的に想像で語ってしまうが、森が偉人枠として畠山よりもずっといい位置にいることには、畠山が貢献していると思う。 続きを読む 5. 森の出世に対する畠山の貢献

6. 憲法勉強会と木戸孝允との出会い

畠山が合流したワシントンでは、正式権限の不足で条約改正交渉に待ったがかかり、伊藤、大久保は天皇からの正式委任を取りに一時帰国する。結局、条約改正は断念するので、彼等の日本往復は無駄足になる感もあるが、二人を待つ時間的ロスを有意義に活用せんと考えた木戸孝允は、個人教授(後に開成学校にやってくるパーソン教授)について英語を学び、畠山と久米の憲法翻訳会に参加する。これにより、久米、畠山の下級随行員が、木戸というトップ官僚に、図らずも急接近することになる。 続きを読む 6. 憲法勉強会と木戸孝允との出会い

8. NYタイムスの取材

話が時間的にやや戻るが、岩倉使節の条約改正交渉は、ユタでの足止め期間中に、交渉だけでなく、改正した条約に調印する、という方向に変わっていたが、日本政府からの正式な委任がないということで中断し、大久保と伊藤が急遽、勅令を取りに帰国するはめになる。

このとき、畠山は、帰国する大久保や、随行する吉原らと共にNYにいて、セントニコラスホテルでNY Timesの取材に遭っている。 続きを読む 8. NYタイムスの取材