畠山のハリス教団観

吉田、鮫島、森がハリス教団に強い魅力を感じていたらしいことはわかるが、果たして畠山もそうであったか、というと多少疑問だ。

その後の書簡などを見ると、じゃ、とりあえずやってみよう、という気持ちではあったようだし、後年にも、ハリスを全否定するようなことは言っていない。が、これは畠山の批判的でない性格によるもので、信仰なり信心なりがあったかといえば疑わしい。むしろ、ハリス教団に参加するための渡米は、直接的に、金銭的な問題というのが最も大きく影響した上での、あらゆる妥協の結果であろう、と自分は思う。

実際、畠山の後のいい分(「杉浦弘蔵メモ」「杉浦弘蔵ノート」にあるニューブランズウィック到着後の複数の書簡)としては、金銭的に行き詰まった、というのが一番の要因のようだ。クラーク、グリフィス、モルレーもそう解釈しているので、彼等には、金銭的な理由であったと告げていたのだろう。但し、彼等と知り合う頃には畠山はハリス教団を離脱しており、彼等と親しくなった頃には、一般的なキリスト教徒たちにとって、ハリスが異端的な存在であったことは畠山もわかっている。ハリスに大きな関心があったとは、たとえそうであっても言わないだろうとも思う。

畠山が複数の手紙(特に花房義質宛てのもの)で言っていることを総合すると、そのうち薩摩ブリンスのブロソル(ブラザー=弟だと思う)が海外渡航することを知ったハリスが、そのプリンスへの布教を企て、岩下らとの談判に臨む。畠山は当初の説明ないし勧誘に同席しているようだ。

しかし、いい返事を得られなかったハリス側は、岩下の帰国より前にハリス側の代表4人を日本に送ることになり、そこで町田久成が帰国したようだ。町田らの帰国については、薩州海軍史にある松村の回顧談に、町田と「その随行者」が帰国することになった、とある。町田と同時に帰国した留学生は、どうも、町田の管轄下というような存在であったようだが、実際にはこの時に町田と一緒に帰ったのは野村宗七(万博メンバー)と中井弘(前述のように立場は不明)なので、松村の言ってることは、さじ加減として、海舟や久米邦武の思い出話くらいに受け取ったほうがいいかも知れない。

しかし、町田がハリス側の人間だったから帰国することになったのか、帰国するのでハリス側の意見を代表したのか、その辺が自分にはわからない。町田が晩年に宗教的(仏教)な生活に入ってしまうことには、ハリス教団の影響があったのかも知れない。が、全くそうではなく、この辺でこいつらと別れておかないとヤバいことになる、と感じて、帰国したのかも知れない。

このとき、畠山は、「まだイギリスに来て間もなく、勉学という勉学もしていない自分に何ができるものか」と考え、帰国は望んでいない。しかし、金銭的に、イギリスでの留学を続けていくことは現実的に難しくなっていたようだ。
事実がどうなっているのか知らないのだが、パリ万博にやってきた薩摩藩の方向性として、UCLに通っていた留学生に充分な出資が望めない状態になったのだろう。ジャーディン・マセソンにそれ以上の借金が出来なくなっていたことが、門田明氏の「若き薩摩群像」に出ている。

畠山は、薩摩が戦争その他で困窮していることから、留学生への出費を憂慮している。自分たちへの入費が確実であれば、そんなことを憂慮しないだろう。藩が困窮してるにも関わらず、我々留学生に投資して頂けて光栄の至り、増々勉学に励みます、ということになると思う。そうではなく、イギリスから出てしまうのだから、イギリスでの留学生活は実質的に不可能になったのだと考える。

或いは、ハリスに傾倒した彼等を岩下らが問題視し、岩下が帰国してしまうと、帰国命令、又は送金停止の決定が出てしまうのではないか、というところにも懸念があったのかも知れない。

時系列としては以下の通りだ(全て西暦)。

2/6 岩下ら万博のためパリ到着(モンブランとの調印目的も兼ねる)
4/22 イースター大演習に畠山らが参加、それを中井が見る
4〜6月の間に、ハリス、オリファントが岩下らに接触(中村正直が率いる幕府留学生にも接触)。
5/11 町田、中井、野村帰国のためロンドン出発
7/2 ハリスが「日本の預言 Prophecy of Japan」を執筆
7/10 留学生からモンブラン採用反対の建言提出
7/27 オリファント、リバプール発
8/23 鮫島がモンソン訪問

町田が「日本の預言」を持って帰ったように思っていたが、そうではないようだ。

 

留学生たちの事情とハリス教団とオリファント

当時、日本は討幕の最末期にあった。こっちはその結果がどうなるかを知っているが、彼等はそのまっ直中にいて、しかも、留学生たちは容易にはその情報を入手できない状態にある。世の中は長州征伐あたりから、こうしたい、という意志だけは誰しも持っているだろうが、果たしてこの先どうなるのか、というのは、誰にも見えていない時期である。その中で、留学は続けたいが、将来的な入金の確保は危うい、という二つの現実を考える畠山の胸の内、というものに自分は非常に親近感を覚える。

勿論、彼は大国薩摩の家老候補で、立派な門地のおぼっちゃまであり、それまでにしていた学問というものは、その時代の一流のものであったことは当然でもあり、自分とは比べるべくもないのだが、将来的な入金の見通しがないままで異国にいる、その気持ちは非常によくわかる。そこに過大な親近感を覚えた、というのが畠山に興味をもったきっかけの一つでもあるのだ。

そこに、アメリカ行き、というオプションが登場する。

ハリス教団に対する興味はさておき、イギリスでUCLや士官学校に通うような状態ではないとはいえ、アメリカは英語国である。最低、英語は学べる。まだ自分にとって充分でない英語を学ぶことが出来、西洋を動かしているキリスト教というものも学べ、軍事についても学べ、しかも生活の心配はいらないらしい。

恐らく、第一希望、第二希望くらいは、もう現実的でない状況で、妥協の合わせ技一本だったのだと自分は思う。そのうちに見通しも立つだろう、それからまたイギリスへの復学も考えればいい、という、育ちのいい人にありがちな悠長な楽観も畠山にはあっただろう。

また、彼には、自分一人ではなく、他の留学生を代表する、という任務もある。任務というよりは、そういう生まれ育ちの人間が持っている当然の責任感覚のようなものだと思うが、ハリスに傾倒する吉田、鮫島、森を止めるよりも、自分が一緒にいる方が安全と思う気持ちもあったのではないか、とも思う。花房に出している書簡からは、ハリス教団がどんなものかを知る任務を負っていると思ってもいたらしいことが読み取れる。

というか、吉田と森に説得されると、そっちに傾くのもわかる。なんか、森と吉田に説得されたら、いかにも反論できなそうじゃないか。

ロンドンにはいなかった長沢が、一緒にアメリカに移っていることも、イギリスでの留学継続が金銭的に非現実的になった、と考える理由である。もし、ハリス教団に対する純粋な興味だけであれば、年少で、しかも場所的に離れていて、年少なだけにイギリス式の学業に慣れていて、その手の相談に加わっていないと思われる長沢は、連れていかないだろうと思うからだ。

つまり、イギリスにいた薩摩留学生には、入金のあてが非常に暗いものになったのだと思う。恐らく、イギリスで彼らの面倒を取り仕切っていた人、或いは会社と薩摩藩の間で、留学生をイギリスには留めておけない事情になったのだろう。

それとは別に、畠山は士官学校に進む目的でオリファントと関係していたようだ。そのオリファントが、次第にハリス教団参加に傾倒していくこともあって、畠山は士官学校入学の断念を余儀なくされた、という部分もあるだろう。或いは、本人の学力の問題もあるのではないか、とも思うのだが、南貞助が入ったというのだから、畠山が入れない、ということもないだろう。尤も、南もその後イギリスの士官学校に残ったようには伝わっていないのだから、南との間にも、留学継続不可能な状況はあったのかも知れない。

いずれにせよ、その辺りに込み入った事情があって、畠山個人の選択としても、イギリスにいることが現実的に最善でなくなったのだろう。

オリファントが薩摩留学生をアメリカへ連れて移住するあたりでは、ハリス教団には日本人学校を作ること、また軍隊調練も予定されていたようだ。少なくとも、畠山はそう聞いたことが手紙に書かれている。だが、結果としてハリス教団は、それほどの団員を増やすことはなく、日本人学校の設立もどうやら実施にはならず、教義としては一風変わった集団ではあるが、どちらかというとワイン産業に貢献した集団としての側面で、地元に知られる存在になっていったようだ。
総合的に考えて、畠山のハリス教団参加は、金銭的な妥協策であり、積極的にハリスを支持している吉田、鮫島、森、及びモンソン留学組に対する立場的な責任感が8割、ハリス教団を含めたキリスト教に対する個人的な興味が2割くらいではなかったか、とみつもっている。

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