ハリス関係の日本人

花房義質と結城幸安と柘植善吾と中井弘

畠山がハリス教団を離れてすぐ、土佐の結城幸安がブロクトンを訪れている。当時、結城も花房と一緒にボストンにいた。

林氏の論文によれば、結城は5/22~29にブロクトンにいたそうだ。彼がブロクトンに到着したときは、正に分裂騒動のまっただ中であったらしい。畠山は花房への手紙の中で、「さて結城子もよんどころなき訳合にて御地滞在のよし、なんともお気の毒千万、紙上に述べがたき次第にござ候(漢字を平仮名にしてます)」と言っている。

結城訪問時には、5月12日に離脱した畠山は既にブロクトンにいない。吉田には会えたと考えられるが、吉田がブロクトンを出た日は不明なので、結城とはすれ違いだったのか、或いは吉田は結城と共にブロクトンを出ているのかも知 れないが、現在不明。

結城は、中井弘(薩摩)の日記を見るに、パリの万博時期(1867年はじめ)に中井と一緒にイギリスに着いている。そこからアメリカに渡り、花房や柘植善吾(久留米の人らしい)と一緒にボストンにいたのだろうか。

花房と柘植は、ヒコ(ジョセフ・ヒコ、または浜田彦蔵)の自伝の中で、67年2月12日に日本を出ている。こちらは、フレンチ(Aaron Weld Davis Frenchだと思う。ヒコの自伝では、途中からFというイニシャルだけになってしまうので、別のF氏なのかも知れない)という別の商人を介している。徳川昭武の「滞欧日記」の付録には、万博に出展した佐賀藩の随行員として二人がリストされている。どちらが真実であるかは不明だが、平均的に考えて、パリで の万博期にはパリ周辺にいて、アメリカへ渡っているのだろう。

この時期はまだアメリカには大陸横断鉄道が開通していないので、日本からアメリカ東部へは、 ヨーロッパか、パナマ運河(途中列車乗り継ぎ)を経由する。花房等はヨーロッパ航路を取っているようだが、目的地がアメリカでヨーロッパも見学しているの か、ヨーロッパ行きが目的でアメリカにも立ち寄ったのか、その辺が不明。

しかし、昭武の日記内のリストが事実であれば、ヒコ〜 フレンチの関係に佐賀藩が関係していることになる。佐賀藩は、ヒコに顧問を頼む予定であったようだが、ヒコは予定したその仕事に就けずに、木戸と伊藤のニセ薩摩藩士に長崎で会い、長州の貿易顧問をやったりしている。結城と中井が、花房、柘植と同じく万博の時期に一緒にヨーロッパへ渡っているのであれば、或いは、中井、結城、花房、柘植は、同じ船でヨーロッパへ渡ったとも考えられる。

中井はどうも、よっぽど金回りのいい家の人なんだか、 この後にも、公式使節員や公使館関係者でなく、留学生でもなく、欧米を徘徊(?)している。後年には、なぜかやたらと木戸日記に出て来るが、薩摩の話には 滅多に出て来ない。薩摩藩の人である気配が薄いのだが、この辺の関係は、いずれまたわかったら更新する。

そしてこれは、意外に伝わっていないのだが、横井兄弟、薩摩のモンソン留学生の一行も同じ頃、つまり、パリ万博の頃にパリ、ロンドン辺りにおり、かなりの日本人がパリ万博時期にパリ周辺にいたことになる。

林氏の論文によれば、ハリス教団に参加するつもりでブロクトンを訪問したらしい結城は、分裂騒ぎに驚き、1週間でブロクトンを離れ、その後、30日にモンソンに着いて種子島のところに2泊、6/1の7時にモンソンを離れて、12時にボ ストンに着き、ボストンで花房に会う。ボストンでは、花房らがいるフレンチ氏のところに滞在し、吉田からの手紙で森、鮫島のブロクトン発を知り(6/6にブロクトンを出たと聞いていたらしい)、これらの顛末に関する手紙を吉田、杉浦に6/21付で出した。その後、7/7にNYへ行き、そこで吉田、畠山に会い、7/5付 の花房からの手紙を二人に渡し、7/9には帰国の途についてしまったという。

思うに、この頃の資金難は欧米にいた日本人全員を襲っていただろう。多分、資金源(藩、又は幕府)の財政難と共に、それを送り届ける機関への送達も混乱していたと思うからだ。この時期に何人かの日本人がハリス教団を訪れているのは、恐らく、畠山が下したのと同じ決断=ほぼ妥協的な要素が濃かったのではないか、とも思う。

 

日本人グループに帰国命令が出た、という新聞記事

この後、NY Timesには、7月29日のフレドニア(ブロクトンの近く)の新聞記事からの転載として、ハリス教団にいる「日本人11人中9人」に帰国の命令が下ったという記事が出る。

どこで、誰が出している命令なのかわからず、また、その頃には、日本人の殆どがブロクトンを離れているので、ニュースが遅すぎてどういうことなのかわからない。

当時、サンフランシスコには日本の領事館がある(領事はアメリカ人のブルックス)ので、7/3にサンフランシスコ着の森、鮫島が働きかけて、領事館から出ている命令、又はニュースとすると29日まで間があきすぎる。7月5日頃にサンフランシスコを出た二人が日本に着いてから日本で交渉しているのだと、日付的に無理だ。大陸横断鉄道のない時代は東西海岸にニュースが通じるのはほぼ1ヶ月かかることを考えれば、むしろ、二人がサンフランシスコに着いて通じたニュースと考えるとちょうどいい。

しかし、自分は、これは、ハリス教団側からの発信ではないかと思う。一時期には大勢いた日本人がいなくなると、狭い町(町ではないが)なので、話題になるだろう。どうしたんだ?ということで、訪ねられれば、本国から帰国命令が出た、と伝えるのが妥当にも思われる。

或いは、フェリスから日本のフルベッキに連絡が行き、 日本政府から命令が出た、という路線もあり得るのだが、その頃日本は上野で戦争があったり、戊辰戦争へ向けて大騒ぎしている時期なので、日本側ではハリスなんかどうだって良くなっていると思う。しかし、その後間もなく、モンソンの仁礼、江夏にも帰国命令が出る(9/4のNY Times。同日に二人は既に帰国のためモンソンを出発)ので、ブロクトンの留学生に対する帰国命令も、日本での戦争要員として、帰国を命じたものなのかも知れない。

しかし、「11人中9人」と、2人はブロクトンに残しているところに意図を感じるので、森と鮫島が関係しているようにも思うが、詳細はわからない。

ともあれ、畠山、吉田、松村の三人は、フェリスの斡旋によるオランダ改革派教会関係者の厚意によって、ラトガースでの就学にたどり着いたのであった。

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