森有礼と畠山の関係を考える

そういう証拠はないので、あくまでも想像だが、岩倉使節在米時の森vs木戸バトルでの畠山の貢献度は大きい。

木戸がプライベートに畠山と懇意になっていくことが、森が仕事を投げ出して帰国するという無謀も、木戸が感情に任せて有能な外交官を更迭するという軽挙も阻止したと思うからだ。

アメリカ人の関係者にとって、森の存在は岩倉使節が考えるよりも大きい。もちろん、使節が到着していろいろ悶着があったりするので、ん?もしやこの青年は実はそんなに実力ない?と思われたりもする。これは大蔵省高官としてやって来た吉田清成についても同様で、肩書き通りに解釈したアメリカ人が過大評価した部分は勿論ある。しかし、アメリカ人にとっての森は、よくわからん国の代表ながらもアメリカの常識で話のできる人として信頼されている。

そういう森が、木戸がムカついたくらいで任務途中で帰国してしまっては、アメリカ人の日本に対する評価がダダ下がってしまうので、極めて軽率なのだ。畠山が木戸と森の両方に近しく、図らずも木戸と森の中和役を務めたことは、大いなる幸いであったのだ。

森が木戸の感情を逆撫でて、急進的な意見で顔面直撃してくるのに反して、恐らく畠山は、天候気候のご機嫌伺いから入って、木戸の愛する花鳥風月も語りながら、西洋で身に付けた知識を平明に伝え、折々には自分の考えも話す、という木戸の好みにそった交際が出来たのだと察する。木戸は決して若手の意見を聞かない人ではなく、むしろ歓迎するタイプなのだが、まず、おはようございますだろ!ってことだ。自分が思うに、伊藤博文が木戸と大久保の間で抜群の出世を果たしたのは、一つにはこれだと思う。伊藤の手紙などを読むと、実に頭のいい人だということがわかるが、いかにも行き届いた心配りをする陽性な若者であることがよくわかる。他人のことは一切考えない果てしなく陰性の天才には出世する例がないとはいわないが、先輩に取り立てられて異例な出世をする若者はまず、8割がたこのタイプだと思う。まず、おはようございますとありがとうございますがちゃんと言える若者の方が、おどっづぁんには好かれる。伊藤ほどではないが、畠山はこのタイプであったと自分は思っている。

例えば、日本語をアルファベットにするような極端な森の意見も、「西洋の考えを輸入するのであれば、その言語は読めるべきだ」という要点として、折りを見て、木戸に伝えることが畠山にはできたのだろう。

性質が温和な畠山が、感情の昂っていないときに言うのであれば、斬新な意見だからということだけで無闇に拒否する木戸ではない。森が期待以上の仕事をしているということは、森の無礼に腹が立っても、政府のトップとして理解しなけばならないし、それが理解できない木戸でもない。

畠山の存在は、感情だけで森を評価してはいかんなぁ、と木戸が思い直す役割も果たしたのに違いない、と思うのだ。

 

畠山に対する森の気持ちを勝手に想像する

自分が思うに、森は畠山を好いてはいなかったと思う。ハリス教団に関する部分は不明だが、森は畠山を「人間として欠けたところのない人」と称しながら、「それは違うと言うことが出来なかった」とも言っているらしい。

それは違う、と自分の意見を明らかにするところに意義を感じるのが森らしい。

森にとっては、箸の上げ下ろしに誤りがなく、臨機応変な態度で咀嚼された意見を伝えられる畠山は、いかにももっさりしていて、どっちつかずで歯がゆかったことだろう。自分が思うに畠山という人は、何が正しくて何が間違いなのか、ということを深く考えていた人なので、そうそう容易にはものごとの正誤を口に出したりはしないはずなのだが、森には「はっきりしない奴」に写っていたようだ。

簡単に言えば、森と畠山は、意見そのものが違うのでなく、そのプレゼン方法が異なるわけだ。

久米の談で、牛と羊とどちらが好きか、と詰め寄られ、実はどっちも好きでもない岩倉が答えに窮するのを、大久保が見ていて、どんどん質問が難しくなってきた、と小声でつぶやいて隣に座った久米を笑わせる話がある。講談社学術文庫の「大久保利通」にも、久米の「90年回顧録」にも出てくるので、余程おかしかったのだろう。

そのエピソードを例に、アメリカ人というのは、中間の曖昧を許さない、と久米は分析する。久米は、それが客を完璧にもてなしたい好意から出ていることも理解しているのだが、確かにアメリカ人というのはそういうところがある。つきつめるとそれは、神か悪魔の二極性ということにもなり、だから民主党と共和党の二極政治が可能なのだ。アメリカ人が、あらゆることに対して賛成か反対かを迫ってくる人々であるのは確かにそうだ。どっちでもない!ないしどっちでもよろし!の範囲が極端に広い日本人にとって極めて鬱陶しい国民性の一つである。少なくとも自分にとってはw

ところが森には、そのYesかNoかを曖昧にしないことが性に合ったのだろう。アメリカ生活の短い日本人にこういう人は結構いて、従って曖昧な日本人は宜しくない!という意見にあったりするのだが、やがてどっちでもいいことに意見を求めるな!という悠久の東洋的な価値観に落ち着いたりすることが少なくない。

畠山は西洋の生活に慣れているのとは別に、心情的には多分に久米的で、どっちでもよろしという、中間が広い東洋の価値観にあったのだろう。畠山はブロクトン時代、森と鮫島が突然、畠山には何の断りもなく帰国してしまったことを聞いて、驚きながらも、それに憤るよりも、むしろ愉快だと言うような人だ。畠山には森のいい分は苦にはならないが、白黒はっきりさせたい森には、畠山はどっちつかずに思えてじれったかったのに違いない。

一つに、畠山は家格が高いこともあるだろう。

幕末最末期の戦乱の話を聞いて、人民が飢えることを真っ先に案じている畠山のものの見方は、多分に殿様的で、いずれ為政者側に立つ者として生まれ育った人間らしい。しかし、明治維新のように急変する時代は、それ以前を完全に否定するような下克上のパワーなくしては成立し得ない。畠山の性格では、平和な時代の聡明にして温厚な、善き統治者にはなるだろうが、改革期のリーダーには物足りない。この時代に必要なのは、時代をそのまま表現したようなアラビア馬であって、彼等の無謀にも思えるパワーが時代を引っ張って行く。ついて来ない者などどうでもよく、先だけを見て走って行く彼等なくして、時代は変わらない。

森はその先頭にいて、先頭たらんと自負している若者である。善き殿様も含めて、江戸時代を丸ごと払拭する価値観にある。ものごとを穏便に、総括的に進めようとする「善き殿様」的な畠山は、森にとってはむしろ、西洋のことはわかっているはずだから、その分余計に、鬱陶しい存在であったのではないか、と自分は思う。

だから畠山にはアメリカにいてほしくない、ということだったのではないか、と想像するわけだ。

なぜかといえば、おそらく、森には畠山がじれったいし、鬱陶しいし、どっか行っててもらいたい存在ながら、そばにいれば、きっと畠山をあてにもしてしまうからだろう。

議論というのは、「それは違うだろ!」と言われるから口論になるのであって、「うーん、それもそーだなぁ」と言われてしまうと、反論はし辛い。じゃ、自分に賛成なのだと理解して、そーだろ?そーだろ?と自分の意見を押し進めていくと、「でも、そういう言い方すると、おっさんたちは聞かないかも」と言われる。それもそうかも、とも思っているうちに、話題が別のことになってしまう、ということはありがちだ。後々考えると、おっさんがが聞くか聞かないかの話じゃなくて、オレの意見の成否の話だろ!と消化不良を起こす。といって、究極的に、自分にはそういう言い方をするのは無理….とも思い、「じゃ、畠山さん言ってよ」ということになってしまうのだろう。

森は、久米と畠山の憲法談義に口を挟んだりもしているようだから、畠山とつき合いたくないのではない。自分より年も身分も上なのに、特別エラそうにもしないから、余計に普段使わない気を使ったりもするのが面倒でもあり、有り難くもある。好きではないが嫌う理由もなく、いればウザいがいないと困る。賛成はしないが反論も出来ない。

要するに森は畠山が苦手なのだろう、と自分は思っている。

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