憲法勉強会と「ソサエティ」に関するむだばなし

旧サイトに書いていた「むだばなし」をしまったまま忘れてしまったので、引っ張り出します。 (^^;)

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久米のこの頃の回顧談で、憲法を翻訳する苦心として、ヘディアス・コープスなんぞは最早訳しようがないということでそのままにした、という話があるが、そこに、「政府の用はジャスティスとソサエティと解したが、このソサエティという訳語が考え付かなかった」という話が出てくる。(久米博士九十年回顧録)
それを彼等は、義と仁と理解したが、それでは簡単すぎるので、ジャスティスを正義とし、ソサエティはなんぞや、と苦しんだところ、森が、そーゆーのはカナのまんまにしとけ、と言ったので、久米と畠山は、それじゃ翻訳にならない、と言った、という話である。森が久米と畠山の議論に口を挟んでいるのが面白い。森は別に畠山と仲が悪かったりするのでもないことがわかる。

しかし、ここで自分も理解に苦しんだ。アメリカの憲法に「ソサエティ」という言葉は出てこない。Bill of Rights(権利章典。憲法修正の1~10条まで)にも、それより後の修正条文の方にもない。それに加えて、義と仁だというが、societyに「仁」の意味があるだろうか。仁というと、キリスト教的にはloveではないか?と思うのだが、憲法でそんなことは言っていないだろう。或いは、久米の記憶違いだろうか。仁に近くて、政府が提供するものというと、憲法にある言葉であれば、welfareなら近いのだが、welfareなら「施し」と訳しそうなものだ。

アメリカの憲法は、通常、自由と平等が大原則と捉えるが、政府の用であれば、ジャスティス(司法)とコングレス(議会)だろう。自分の「仁」に対する理解が不充分なのだが、何かがおかしい記述だ。

しかし、英語の方は記憶違いであれ、彼らが、アメリカの政府の用を義と仁と解釈したのは面白い。孔子と同じ価値観にある、ということではないか。尤も、礼や忠、孝などの欠落が、木戸や久米にとってはいたたまれない野蛮な国であり、自分がされたくないことを他人にするな、と教える東洋に対して、自分が嬉しいことは他人にもしてやれ、と教えるキリスト教に、久米は堪え難いお節介も感じているのだが、森と畠山が出てくるので、彼等の理解として、アメリカの政府は義と仁を保証するものであったのだろう。つまり、政府の用は、洋の東西を問わず、そこにあるということだ。

文法的に言葉不足で、久米のいわんとしていることが掴めないのだが、しかし、森や畠山がソサエティ(の存在を政府が保証することだと解釈する)にアメリカを見ていたのかも知れない、と考えると、目からウロコだ。いかにも、封建社会の人が見たアメリカという、完全に異質な世界の臨場感を感じる。

ソサエティというと、ヨーロッパ的な社交界、サロンのような匂いもあるが、森や畠山のいうソサエティというのは、お上が決める身分的な区分けの対局にあるものとして、民衆の方から作り出される「まとまり」のようなもののことなのではないだろうか。現代の我々にとっては、あまりにも一般的な「常識」である自由と平等だが、常識としてあてがわれた自由と平等の中にいる我々は、その意味を考えることは少ない。しかし、見渡す限り封建社会だけの世界に生まれて育った江戸時代の留学生には、自由も平等もあまりにもforeignな価値観であったろう。その観念さえもない彼等には、その概念を辞書で理解することはできない。その自由と平等を謳う世界に置かれて、彼等は、日本の土壌に対比しては把握することが出来ない自由と平等を、身分や血によらない集団の形成、即ちソサエティという、目に見え、体験できるものの中に見出し、それがアメリカの政府の用と見たのではないだろうか、と思うのだ。もしそうであれば、現代に生きる自分には、その目線があまりにもforeignで新鮮だが、実にオリジナルな理解だ。

日本にそういう上下の隔てのない付き合いがなかったとは思わないし、江戸時代の文化は、武士が絵描きになったり、商人や坊さんたちと交流して、碁を打ったり、俳句を読んだりすることで充実していたわけだが、それはごく限られた状況であったとはいえる。少なくとも、制度はそれを認めていないし、商人や坊さんが政治家になることは、よほどの例外を除いてはあり得ない。アメリカは政府の制度からして、民衆を取り込むことなくしては成立せず、民衆の分け隔てのない交流を保証し、保護するのが政府である。その辺りのメカニズムをソサエティと解釈し、「お仕着せでないまとまり」の充実と発展に、アメリカの個性を見ていたのではないだろうか。

別の言葉で言うと、コミュニティでもあるだろう。その後、文部省の学監になるデビッド・マーリーは、森の出した質問書の回答にも、コミュニティから発展する教育の要を語っているし、死後にアメリカで知人らの出した記念冊子のようなものでも、コミュニティに関心を置いた功績を讃えられてもいる。マーリーの観点に大きく影響されている畠山が、そこに関心を持っていたことは大いに考えられる。

コミュニティというと、地理的に限定される意味合いが強いが、コミュニティと言わずにソサエティと言っているところに、地理的なものでなく、主義的、意見的なもののまとまりの方に重点を置いていると読み取ると、それは、森が帰国後に発足させる「明六会」というソサエティにもつながる。

森が発足させた明六会というソサエティは、そのメンバーから、学会と解釈される集団だが、森が目指したのは学問などという狭いくくりではなく、自由に意見を交換する集団、そこから発展する社会、即ちソサエティの確立であったのではないだろうか。

森はアメリカで教育協会の会合に出ている。こういうものは、政府がどうしろ、こうしろ、と言って発足するものではなく、利害や興味を同じくする者の間で、自然に形成される集団である。この集団は後に組合へと発展する教員協会のようなものなので、いってみれば、政府との関係は、その一部では全くなく、むしろ対立するような立場を取るものでもある。森のいた時代には、組合などという制度はないが、その根になるものの一つではある。ギルドや堺の商人自治社会のようなものが前例としてあるとはいえ、政府の指図からでなく出来上がる組織が充分な発言力を持つことは、封建社会に育った彼等にとって、実に異質なものとして関心を引いたろうし、聡明な彼等は、そこにアメリカの方向性、或いは魅力を見出しても不思議ではない。

確かにそこが民主主義の出発点である。

政府によるその権利の保護と、司法による公正な判断に保証されて、国民個人の発言力はソサエティを基盤にして確保される。自由も平等も、その観念さえ知らずにその直中に身を置いた彼等が、ソサエティの存在に政府の用を見ていたのであれば、極めて正しい民主主義の認識といえるだろう。

そうであれば、突飛で急進的で、西洋の物まねをしようと突っ走った存在と捉えられがちな森は、実は民選議会や民権運動に進んだ一派よりも、はるかに根本的で、お仕着せでない民主主義を、手探りで、地道に生み出そうとしていたのだ。そうとは見えないところが森の魅力でもあるが、森の孤独はいかばかりであったろう。そこまで自分の中で自由や平等を把握し、それを日本の地で実現しようとしていた日本人は極めて少なかったはずだ。或いは、この辺に福沢諭吉との共鳴があるのかも知れない。

しかし、その「ソサエティに対する政府の用」というキーワードに、コミュニティという地理的なくくりの方を重視すれば、木戸の地方官議会につながる。つまり、森と木戸は根本的なところで同志ということになる。それが故に、この二人は、お互いにムカつきながらも、付き合いをやめないのだ、と自分は考える。

大島渚が作った「戦場のメリークリスマス」という大好きな映画がある。この映画の原作は「種と蒔く者」という。歴史には、いたるところに、「種」と、それを「蒔く者」がある。蒔く者は、往々にして、その種が花を咲かせ、実を結ぶ頃には消え去っている。森と木戸は、アメリカから民主主義という種を持ち帰り、別々の土壌に蒔いた者であったのだ。

だが、そこから広がって憲法が生まれ、政府を育て、民主主義として収穫するほどのパワーも忍耐力も、日本人にはなかったのだろう。制度の方を輸入して、そこに日本を当てはめ、お上が下々に割り当てる西洋風を文明開化と呼んで、日本はあたかも封建社会から脱皮したような錯覚のまま、total warの時代へと突き進む。

日本に強制的に民主主義が施されるのは、それより更にずっと後の話になるが、彼等の蒔いた種が枯れ果てはしなかったことも、彼等が思いも付かなかった花を咲かせ、実を結んだことも、その後の歴史のそこここに読み取ることはできるだろう。

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