三里塚御料牧場

成田空港からほど近い三里塚に、三里塚記念公園というものがある。三里塚というと成田空港の反対運動を思い浮かべるが、その昔は皇室の御料牧場があった。ここを畠山が訪ねたのではないか、と思っていた。

というのは、1875年8月にマーリー夫妻との日光旅行から戻った畠山は、マーサ夫人の手紙によると、戻ってすぐの8月21日に再び出張に出かけている。しばらくの休暇を共にしたマーサは、ダンナであるマーリーと馬で走って行って、狩りをしたりする楽しげな畠山に喜び、留守がちな二人がびっちり一緒にいた旅に慣れてしまったのだろう、従妹への手紙の中で、畠山がいないので「死ぬほど寂しい」と言っている。

そこで、畠山の出張は、果たしてどこであったのか、と思い、公文書館アーカイブでこの日近辺の記事を調べていると、大久保が千葉の牧場視察に行っていることがわかった。

先に結論を言うと、恐らく畠山の行き先は御料牧場ではなく京都なのだが、そこに到達する前に、成田空港に近いこともあって御料牧場を訪問したので、以下、そのときのはなしです。

<その後の追記:AP>

ここに出てくるアップ・ジョーンズだが、APはウェールズ語の「son of」とのこと。従って、姓の一部ではあるがfirst nameではない。アップと書くよりもAPとすべきなので改めました。

後に天皇陛下の御料牧場となったこの土地(その後、成田空港建設によって栃木に移転。現在は記念公園と、当時の事務所を模した資料館のみが残っている)は、当初、綿羊の飼育を試みようとしていた。その発足に関わったのが大久保利通で、アメリカから招聘したAPジョーンズを責任者に、 試行錯誤を経ながら牧畜の学校も置かれ、その校長となったのが、同じ薩摩の岩山敬義である。

旅行から帰ってすぐであることと、マーリーが一緒でないことから、これは文部省関係の出張ではない、と踏んで、暫定的に、この出張は、この御料牧場ではないか、と思った。当時の畠山を、文部省以外の仕事で動かせる人間は、恐らく大久保であろう、ということもある。恐らくは、アメリカから技師を呼んで、綿羊飼育に乗り出そうとした大久保が、英語と西洋事情に関して信頼し、また学校建設ということも考えに入れて、畠山を連れて行ったのではないか、と思ったわけだ。

結果的に言うと、この地での綿羊飼育は、伝染病等によって失敗するのだが、その後、牛馬の飼育に方針を変えて成功している。大久保は同時期に馬の飼育にも関わっていて、明治9年に岩倉、木戸などの洋行グループが再度合流した明治天皇の東北視察の旅に同行の際、木戸に馬の写真など見せていることが木戸日記に書かれている。「ちょっと、見て、これ、オレの馬」などと写真を見せている大久保と、それを日記に書いている木戸と、歴史上の偉人らしからぬ両者の交流が微笑ましい。

しかし、畠山は、その後1年足らずで死んでしまうこともあり、この牧場、及び牧畜関係の学校に携わったようではなく、この学校は、牧場と共に、同じ薩摩の岩山敬義が主宰することになる。岩山は、岩倉使節の少し前に渡米しており、APジョーンズの招聘には、彼が関わっている。講談社学術文庫の「大久保利通」には、河瀬秀治の話として、ジョーンズの招聘の方針を変えようとして、大久保に怒られたという逸話が載っている。

岩山は家老の家の三男とかいうことで、畠山と出自が似通ってもいる。詳しい資料を見る機会に恵まれず、この辺のことは、また、今後調べて行くつもりだが、成田空港が近いこともあり、当時の事務所があった場所に開設されている三里塚記念公園を訪ねた。

img_0516ここへは、成田駅からJRバスの三里塚行きバスに乗り、三里塚で降りるとすぐ。途中、成田山新勝寺を通るが、当時、大久保らは新勝寺に寝泊まりしていたという話もあるようだ。

入口から記念資料館までの道は、御料牧場当時の様子を残しているそうで、 マロニエ並木が入口から記念館まで続いており、新緑の季節が一番美しいとのこと(上の写真は冬なので、緑はなし)。 資料館の脇には、別の場所(十倉村両国)にあったジョーンズの住まいが貴賓館として移築されている。自分が行ったときは改装工事中らしく、作業の方々が朝早くから働いていらした。

なんでも、この辺りは関東圏では有数の牧畜に適した土地だそうで、古くから馬の放牧が盛んだったという。 この辺は佐倉七牧として、江戸時代にも馬の飼育が行われていたそうだ。 記念館には江戸期以前の馬狩り(?)の様子なども展示されているが、大勢で追って行って、次第に追いつめて行くというやり方が、当たり前だろうが、いわゆるアメリカのインディアンやカウボーイと似ているのが面白い。

往時には、職を失った士族などが大勢入植していたらしく、馬を飼育していた御料牧場時代には、 鉄道も通る繁華な場所で、昭和天皇の乗っていた白馬(名前は忘れた)や、初期のダービー馬を輩出していたそうだ。

img_0515【沿革】

「下総御料沿革史」によれば、明治8年5月に牧羊開業取調掛が置かれ、岩山が長官となり、D.W. アップ・ジョーンズを雇って、11名が牧羊開業取調掛となった。8月には、Dr. H. レーサムがその補助として雇われ、彼らは茨城、栃木などを巡察し、帰京後、成田周辺を牧地として最適として大久保に報告した。

9月には、大久保が河瀬秀治、岩山、ジョーンズを伴ってこの地を巡察。取香牧(佐倉七牧の一つ。成田三里塚周辺)は将来牛馬改良の地とし、十倉、七栄(共に現在の富里市)、十余三(成田市)を買い入れて牧羊場に充て、事務所を両国に置き、ここに官営の牧羊場、牧場ができた。

この本には、このときのことを記念して、「両国冲高丘に標木を建てた」とあるが、これはどこなのだろうか。

馬の方は、元々そういう土地でもあり、元からの馬飼いを用いて飼育し、他府県に貸し出すなどして成功を収めたようだが、羊の方は病気や、野犬に襲われたりなどして、大量に死んでしまったりもしたようだ。野犬の被害は甚大だったようで、銃による野犬狩りが行われたようだ。各地で進んだであろう牧畜と共に、この辺り、ニホンオオカミの絶滅にも関係しているかもしれない。都会で育った自分には、外国に送られて来た動物たちが異なる環境で病気に冒されたことは容易に考えつくが、野犬に襲われるというのは全く思いつかなかった。こういうことがわかるのが、こうした資料館などを訪れる楽しみである。

学校ができたのは明治9年のようで、明治12年には3年間の履修を終えた54名が卒業したという。11年には獣医を雇い入れ、13年から獣医学の学制を敷いて、15年に駒場農学校の付属になったそうだ。

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【畠山との関連】

明治9年というと、畠山は5月からフィラデルフィア万博に参加して、そのまま亡くなってしまうので、この学校には関わっていないだろう。

img_1066しかし、実兄であるという二階堂蔀は、官員録によると、明治10年代のはじめに勧業寮勧農局(及びその後継部署)に所属している。岩山敬義というのは、家老の家柄だそうだが、姉だか妹だかが西郷隆盛に嫁していて、西郷さんは、その二階堂蔀の屋敷を買い入れて屋敷にしたそうで、これが、現在、鹿児島市の武にある西郷公園であると説明が書かれている。

西郷おどど(弟の意味。自分は親しみを込めて、従道をこう呼んでいる)と畠山が親しいこともあり、また、どこで聞いた話なのかわからなくなってしまったが、岩山と畠山は何らかの親戚関係のようなものであったような記憶もある。それに、日光旅行から帰ってすぐの出張が、大久保等の下総の牧場視察の時期に該当している、というこれらの情報が自分の軟化した脳みそに醸され、畠山はこの視察団の中にいたのではないか、APジョーンズその他の外人招聘などに、多少なりとも関わったのではないか、と思わせていたわけだ。

本当は千葉の県立図書館で、この牧場、特に学校のことを調べたかったのだが、地震の関係で行けなくなってしまって、今回は断念した。被災された方に謹んでお見舞い申し上げるとともに、次回は是非、もう少し更なる取調べを行いたい。岩山は、サンフランシスコの学校にいたような記憶もあり、それがAPジョーンズの招聘と関係しているような気もするのだが、定かな記憶ではないので、岩山の方ももう少しちゃんと調べたいと思っている。

(2011年に書いたものだったので、過去形に多少編集。東日本震災の直後だったので、御料牧場と永井久一郎を調べに行った千葉の図書館はかなりの被害を受け、半分のみを開館、倒れたままの書架もあった。)

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