金策1:フォッグとモンソン留学生

ボストンにいた岡山の花房義質はハリス教団に興味を持っていたようで、ブロクトンにも訪問し、その際に畠山と会っている。1868年のはじめ、雪のある頃、と花房から畠山に宛てた手紙にある。

ブロクトンはエリー湖畔にあり、葡萄を栽培するくらいだから、内陸部、北部のNY州よりは温暖と考え、雪がある頃というと、長めに見積もって、3月以前という時期だろう。

ハリス教団からラトガースへ転出する顛末については、「杉浦弘蔵メモ」の花房儀質宛書簡、及び「杉浦弘蔵ノート」の新納久脩宛書簡(共に1868年6月)

金策その1:フォッグ氏に断られる

その花房へ宛てた6/26/68付け手紙の中で、畠山 は、5月12日にハリス教団からの離脱を決意したといい、翌13日には、モンソンに向けて出発し、モ ンソンの仲間のもとで3日を過ごしたことを伝えている。マサチューセッツ州の中部にあるモンソンには、イギリス留学生の翌年に出発した薩摩藩第二次米国留学生と呼ばれる一段がいた。ここでは「モンソン留学生」と呼ぶが、メンバー詳細はウィキを参照されたい。

畠山はモンソンから、種子島、湯地を伴って、まず18日(?)にNYのFoggという商人に金策に行く。この人は、畠山の書簡に よれば吉原、種子島の学費等の面倒を見ていたそうだ。

結果的には、畠山への金銭援助をするような話は聞いていない、ということで、金策はうまく行かず、畠山はニューブランズウィックへ向かい、フェリスとオランダ改革派教会の援助によって、畠山らはラトガース大学で復学することになる。

Fogg、フェリスについての詳細は別項を参照されたいが、Foggというのは、ハーバード大学Fogg美術 館のWilliam Hayes Fogg(夫妻は同大学の関係者ではなく、Foggは実業家)であると思われる。中国、日本の美術品他の輸入で大成功を収めた実業家である。彼の死後、夫 人から寄贈されたFoggの遺品によって、同美術館が創設された。

仁礼の日記や畠山の書簡などでは、ホークと書かれていることが多い。薩藩 海軍史 の松村の回顧談には「ウィリアム」という援助者が出て来るが、これはFoggのことなのか、フェリスのことを誤って記憶しているのか、或いはその後のフレ ンチなのかは不明。名前が「ウィリアム」なのはFoggだが、畠山の説明と松村の説明での印象がやや違うため、自分は松村のいう親切な援助者はFoggの ことではないと考える。

モンソンからニューブランズウィックに至る疑問と考察

畠山はNYのFoggのもとからニューブランズウィックへ向かう際、種子島とは別れているようだが、湯地が一緒なのか、畠山一人であるのかは不明。ニューブランズウィックでは、既にラトガースに通っている日下部、横井兄弟に会い、恐らくは 彼等の紹介で、再びNYへ出て(ニューブランズウィックとNYは列車で1~2時間の距離だが、当時はフェリーを使って海を渡る)、21日に、今度は横井兄弟をラトガースへ入れたフェリス牧師に会う(フェリスもNYにいたので、モンソン→NY→ニューブランズウィック→NYという行程)。

以上は花房宛の手紙の内容で、薩摩の岩下、新納に宛てた手紙では、Foggの後にフェリスに会ったように書かれてある。恐らく面倒な説明をとばしたのだろう。

ここで不思議なのは、なぜモンソンの仲間から直接借金をしないのか?ということだ。

勿論、お互いに留学生で金銭的に余裕はない身とはいえ、寄宿させてやるくらいの融通は利くだろう。数日泊めてもらってはいるが、畠山や、その後教団を離脱してくる吉田や松村も、モンソン滞在の留学生に加わってはいない。

書簡等から想像するに、モンソン留学生の生活費、或いは払い込む学費などは、アメリカ人の代理人の小切手で管理されていて、わずかな生活費を毎月貰うような仕組みだったのではないか、と思う。つまり、留学生本人には現金化出来ない、現金の手持ちはない状況にあったので はないか、と思うのだ。

この時期(1868年)では、国内全土的および国際的に流通する通貨は日本にもないがアメリカにもない。だから貿易はメキシコ銀などでやり取りしているが、メキシコ銀では街で新聞とか買えないし、路面馬車や船みたいなものにも乗れないわけなので、どうしても銀行的な機能、為替的な手段が必要になる。

で、恐らく、得体の知れない外国人であった留学生たちは、預金は出来るだろうが、小切手を現金化させてもらえないだろうと思う。この辺り、実情全くわからないのであくまでも想像だが、21世紀の常識でも、外国人が銀行で小切手を現金化とかは難しい。もちろんメキシコ銀を持っていればそれを両替しながら生活していけるが、重いし危ない。小さな町で年中メキシコ銀を交換にくる東洋人なんか、泥棒に狙われ放題だろう。

従って、モンソン留学生の費用は、実際に薩摩とFoggの間を銀が行ったり来たりしていたのではなく、彼らにかかる経費を日本での貿易で相殺していた、と自分は考えるが、それをサポートする資料はない。日本側で担当しているのは、長崎にいる汾陽(かわみなみ)何某(五郎右衛門?もっと短い名前が あったような)だろうと思うのだが、これを仲介しているのは坂本龍馬の海援隊ではないのか?とも思う。坂本龍馬のように有名な人は、その筋の専門家にお任せするが、海援隊(なり亀山社中なり)の出納簿というのがあったらぜひ見たい。

自分が思うには、モンソン留学生は、全員ではないかもしれないが、薩摩の米国貿易のエージェント(の相談役のような仕事)を兼ねていたのではないだろうか。恐らくは、Foggが日本に送ってくる商品=武器関係の吟味と交渉役、というような立場で仁礼、江夏、モンソンで自殺してしまう木藤が駐在し、その代金相殺の一部として、主に吉原、種子島、およびその他メンバーの学費の面倒を見ていたのではないかと思われる。

仁礼も日記の中でモンソンアカデミーには通っているので、全員が留学生であったのも事実であろう。種子島が妙にフットワークが良いので、ただの留学 生の立場ではなく、現地で仕事をしていたように思えるところからの想像である。

細かいところだが、畠山、松村、吉田の三人は、なぜモンソンではなく、NBへ行っ たのか、というところにも疑問がある。

わかりやすいのは、横井兄弟の件(改革派教会が資金援助した)を知っているモンソン留学生が、横井や日下部を通じてフェリスを訪ねてみては?と提案したからだろうが、なぜ同じ薩摩藩の留学生がいるモンソンではなく、他藩の人間がいるところへ行ったのか。

プロジェクトとして、モンソンにいた留学生と畠山らのグループは全くの別口なのだろう、というのが私の予想だ。この二つのグループは結果としてオランダ改革派教会という同じ人脈に通じたが、畠山らは当初、イギリス、フランスに向けて、ジャーディン&マセソンを介して出かけたところにその違いの源があるのかもしれない。

 

 

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