ハリス教団から離脱

畠山らがハリス教団にいた期間をよく「2年間」というので鵜呑みにしていたが、年月日を追うと、畠山らがハリス教団に参加したのは、どんなに長くとも、UCLでの学期の終わる67年の6月から、ラトガースのグラマースクール入学の翌年68年9月までの1年あまりである。

林竹二氏の「森有礼とキリスト教」研究によれば、67年7月10日にモンブラン採用に抗議する建言を藩に宛てて書いた時点ではイギリスにいるため、イギリスから出るのはそれ以降であり、翌年5月22日にブロクトンを訪ねた土佐の結城幸安(幸吉郎)が畠山らに会えていないそうだから、それ以前にブロクトンを離れていることになる。

つまり、自分の調べでは、オリファントがイギリスを離れるのが7月の下旬でNY着が8月7日(NY Timesの入港記録)と思われる。私が勝手に「モンソン組」と呼んでいる薩摩第二次留学生である仁礼景範の日記で、鮫島と仁礼がNYで会うのが8月23日である。このとき、仁礼は鮫島と面識がないが、仁礼の他の記述を見ると、畠山とは面識があるようなので、鮫島と一緒にNYで会っていれば日記に書くだろうから、畠山は鮫島とは一緒にいなかったようだ。彼らに比定出来る下船名簿はみつけていないのだが、大まかにいって、67年の8月にアメリカ到着、ハリス教団に参加、ということになるだろう。

従って、ハリス教団での生活は、実質、67年8月から68年5月の9か月程度ということになる。

しかし、67年から68年の2年にまたがっているので、当時の日本ではこういう場合2年という。英語で書かれた当時の日本についての本を見ると、「日本ではこういう年の数え方をするので、彼等の数え方として」2年、とか3年とかいう注釈がよく書かれている。

教団からの離脱

ともあれ、イギリスから渡ってきた薩摩留学生の6人は、68年の5月頃、畠山、吉田の順で教団を離れ、その後すぐに森と鮫島が帰国、年少の長沢のみを教団に残して、松村も畠山、吉田に合流する。畠山の書簡では、5月12日に離脱を決意したようだ。

新納刑部や、岡山の花房義質などに畠山が出した手紙(犬塚孝明氏の「杉浦弘蔵ノート」「杉浦弘蔵メモ」)や、林氏の森有礼研究、及び、英語で書かれた薩摩留学生、またはハリス教団に関する資料などを総合すると、68年5月に、薩摩留学生たちにはハリス教団からの離脱につながる議論がもちあがったようだ。

その発端は、日本がアメリカと戦争になった場合に、自分達はどうするのか、というものであったようだ。畠山の書簡によれば、ハリスにその意見を求めたところ、教団として正しいことのために戦うのであって、その敵国が日本であれば、日本を敵国とするし、霊言によってアフリカなり、どこか余所の国に赴くことになった場合は、どこへでも行き、教義に対して日本が敵国であれば、敵国として戦うのだ、と言われたらしい。

畠山はどうしてもこれに納得がいかなかった。

もう一つ、ラクストン一家の教団追放というのが同時期にあり、これも彼らが教団を離れた要因になったとみえる。

ラクストン一家の追放というのがどういうものであるのか、詳しいことはわからないのだが、林氏の論文によれば、全ての資産を投じて教団に参加したこの一家の夫人が、一家として同居出来ないことに反発し、ハリスの事実上の独裁状態に対する批判などが巻き起こったようだ。

この2つの騒動を大きな要因として、イギリスからやってきた6人の薩摩留学生は、長沢を残して全員がハリス教団を離れてしまうことになる。恐らく、留学生にとっては国の問題が主であろうが、この騒動は、薩摩留学生だけでなく、オリファントやハリスも巻き込んだ全教団的なものであったようだ。

畠山のハリス評

畠山は、というと、実はここに至るまでに、既にハリスに対する疑問を抱いていたようだ。というよりは、彼は、ハリスを信じたことはなかったのではないか、と思う。

当初、この教団は前にも書いたように、ハリスの「日本の予言」実現に向けて、必要となる教育を施すべく、日本人学校を設けるつもりであったらしい。

畠山がハリス教団への参加という妥協策に傾いた理由の一つは、ハリスの教義ではなく、ここにあっただろう。
実際、日本人を集め、学校を作る計画にはあったようで、彼等以外にも彼等に関係した日本人が参加していたようだが、畠山の言うに、一日の労働を終えるとそういう体力は残念ながら残っておらず、また、勉学が禁じられることもあり、許されることもあり、畠山から見れば、一向に、勉学が主体になる傾向にはなかった。

どうも、上述のラクストンというのが軍人のようで、彼が軍事教官的な役割を果たすという期待が畠山にはあったようだ。その可能性がなくなったことも、ハリス教団からの離脱の引き金になっているだろう。畠山は、後年、ラトガース大学での就学に慣れるまでは、一貫して軍隊に関することを学ぶつもりでいたとみえる。これは、それが彼の留学の目的であり、当番頭という小隊長的な職務からの真っ当な関心であった。

また、元々が、吉田、鮫島、森のように、教義に対して関心があったとは思われない畠山にとって、ハリスの霊言によって方針の決まる教団が、即ち、神の名を借りたハリスの独裁状態であることも疑問であったようだ。
しかし、畠山はハリスを全否定するのではなく、「信じられることもあり、信じられないこともあり、しかし、確かに特別な何かを持っている者である」と言っている。畠山の性格を伝えていて面白い。現状に対する冷静な目と、生存のための妥協が共存し、その上で神秘的な現象をそのまま受け入れている。批判や自分の意見が常に一番重要と考えるタイプではなく、判断力の備え方が、確かに中級以上の管理職=上士の出を彷彿とさせる。

ところが、判断だけに埋没して評論家にはなっていかない。それも、生まれ育ちによるものだろうか。畠山は突然離脱を決め、翌日に決行してしまう。悪く言えば、この時点で畠山は仲間を見限ったともいえる。誰も誘わず、一人で教団を離れてしまうからだ。
花房義質(岡山藩から、ヒコ、米人商人のフレンチを介してボストンに留学中)宛書簡参照

自分が思うには、この一団は畠山が責任者のはずなので、この行動はやや不思議ではあるのだが、恐らく、ここ至るどこかの時点で、彼らは彼らの意思として、上下関係を否定したのではなかろうか。それぞれが個人として活動できる価値観が、彼らの中にはあったと見えて大変興味深い。

彼等の間で意見が分かれた結果、畠山は学校に通って本質的な西洋文明の学習という目的に戻るべきだ、という彼なりの結論を得る。そこで離脱を相談すると、ハリスがそれもよかろうというので教団を離れたという。黙って出て行ったりしないところや、後日談でも悪く言っていないところ、長沢への気遣いもあって、離脱後も教団とは連絡を取っているらしいところ(長沢の日記に、畠山から送金を受けたり、邪悪な手紙が来たりした話がある)などにも、畠山が管理職向きに育った匂いが感じられる。

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