市民軍参加

Andrew Cobbing氏のThe Satsuma Students in Britain: Japan’s Early Search for the essence of the Westのただで読める部分を読んだところでは、薩摩留学生たちはUCLには学費を払っているようだから、通ってはいたようだ。が、そこには、畠山がWoolwich(ロンドン西部)にあったロイヤル・ミリタリー・アカデミー(英国の士官学校)へ入ろうとしていたことに触れている。

なんでも、長州の南貞助がローレンス・オリファントの援助でそこに入ったので、科学と数学を勉強して、自分もそこへ入ろうとしていたらしい。

更に、畠山はVolunteer Militia(正式な国の軍隊員でなく、一般市民の作る軍隊)にいたようだ、ということも書かれている。

アメリカであれば、ミリシアは独立戦争、南北戦争を担った歴史もあって、現在も米国憲法で認められた存在だが、21世紀の現在では、何をミリシアとするか、という解釈に様々な議論があり、事実上は存在していないと言っていいと思う。

畠山がイギリスで参加したボランティア・ミリシアは、同時代(南北戦争期)のアメリカのミリシアの意味ではなく、現在のアメリカでいえばリザーブ(予備兵)に近い。ミリシアという言葉ではなくボランティアという言葉がよく使われているようだ。

イギリスの当時のボランティアは、平時には演習のみを行う一般市民の軍隊で、有事には戦地へも赴くものであったようだ。今でもそうかも知れないがそれは知らない。犬塚孝明氏の著書に引用されている中井弘(薩摩藩士)の日記(近デジでただで読める)で、中井は、「遊軍隊」と言っている。

中井弘の日記

1867年の初めから数カ月イギリスに遊学している中井は、その日記に、畠山が、イギリスの軍服を持っていること、また、畠山が鮫島、松村、吉田と共に、ローバー(ドーバー)で行われた「一大調練」に参加したことを書いている。

日記には日付けがないのだが、これは、場所と時期から、1867年4月22日に行われたドーバーでのVolunteer Reviewが、中井のいう「遊軍隊大調練」であろう。

イギリスは1861~77年にかけて、この大調練を毎年イースター・マンデー(イースターの後の月曜)に行っていたらしい。会場(?)はドーバーの他、ブライトン、ポーツマスなど、フランスとの国境であるドーバー海峡沿岸地なので、海軍系の演習であるようだが、ボランティアは基本的に歩兵(infantry)であるようだ。ボランティアの演習が海軍との合同演習であるのか、沿岸地での予備陸軍歩兵隊の演習であるのかは、現在不明。その他に、ウィンブルドン(ロンドン西南郊外。テニスの大会やるとこ)、ハイドパーク(ロンドン市内)などでも大規模な演習を行っている(こちらは海岸地域ではないので陸軍だろう。バッキンガム宮殿に隣接しているので、王宮警護の意味もありそうだ)ので、どちらかの演習を前年に見た薩摩留学生が、参加を企てたものかもしれない。

或いは、この1867年の演習にはベルギー軍が参加しているので、薩摩英国留学生に関わるモンブラン卿という人が一枚噛んでいる可能性もあるかもしれない。

この日の演習について書かれたロンドン絵入り新聞を見たところでは、日本人が参加したことは書かれていないようだ。

当時のボランティア兵の写真 Photograph of a group of the Taranaki Mounted Volunteers, 1863 or 1864. (c) The Fitzwilliam Museum, University of Cambridge.

ちょうどその頃、オリファントは「ハリス教団」のカテゴリーに述べるトーマス・レイク・ハリスのコミューンに入ろうとしていた。畠山を含む薩摩留学生たちの一部は、主に金銭的な理由で結局そちらへ行ったようだが、イギリスにいた頃の畠山は士官学校に入りたかったらしい。アメリカに行った後も、このロイヤル・ミリタリー・アカデミーに入りたい、という意志があったことが、彼の米国滞在中の書簡などにもある。その割に、アメリカで軍隊学校に進んだのは、勝小鹿と松村なので、いずれかの時点で、軍より、その元になっている一般科学に興味が移ったように思われる。

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