ときの朝廷を牛耳る長州と薩摩は、1862(文久2)年の9月はじめ(注意:月はみな西暦。この年は、日本側の8月が閏月で2回あるので、西暦と旧暦が近付いている)、 まずは薩摩が生麦事件によって攘夷の先頭に立つ。

そこで長州は遅れてはならじと朝廷から勅状をもぎとって、翌年の1863(文久3)年6月末、下関で一方的に攘夷を決行する。

これに引き続いて、8月には、生麦事件の責任追及のため、英国が薩摩を攻撃。対する薩摩は、善戦するが、結果的に大敗する。更に、京都では尊攘派公家の大物、姉小路公知の殺害容疑をかけられ、長州は攘夷集団の先頭に躍り出た。

しかし、黙ってやられている外国軍ではない。

折しも、南軍戦艦アラバマを追って日本にいたワイオミングは、急遽報復に乗り出す。

実はアメリカは、もうこの頃は自国の南北戦争が激化していて、国に帰ったら自分らの国がなくなってるかも知れんのに、日本なんかと遊んでられっか!!ということで、特にワイオミング乗組員は大変むかついており、やったろーやないけ...ということで、間髪入れずに下関へ進軍。イギリスとかフランスみたいに後先を考える余裕も見せずに、下関の長州藩をどつきまわし、買ったばかりの西洋軍艦を沈める。これに遅れてはならじと、フランスも兵を進め、上陸戦まで繰り広げて、更に長州を叩きのめす。

ところが、それに懲りず、長州は関門海峡封鎖を続け、断続的に攻撃を続ける。これに外国側もキレて、翌年の1864(元治1)年9月、英米仏蘭の4か国連合が17艘の軍艦をくり出して長州攻撃に乗り出す。フランスは幕府と結託し、従ってイギリスは条件反射的に長州に接近する中、アメリカは、もう、いよいよ日本なんかと戦争なんかしてる場合じゃないんだけど、一番先に条約を取り付けたのはあたしたちだかんね、という見栄をかけて見過ごすわけにもいかずに、しかしながら自国の戦艦はない!という、ほんとにつきあいで出撃してるとしか思えない状態ながらも辛うじてこれに加わり、それぞれの国が全然違う目的で、しかし軍隊としてまとまって長州へどっとくり出して行く。

スタート時点でぶっちぎった長州は、この頃になると、頼りにしてたお公家さん方は京都を追放になるわ、連合軍には賠償金の支払いを迫られるわ、木嶋のじーさんは兵隊連れて京都に攻め上ろうとするわ、その上ブチ切れて、ホントに京都で戦争始めるわで、正式に幕府の敵対藩となってしまう。その結果、その時点では圧倒的多数の幕軍に攻め込まれ、久坂、周布、吉田稔麿らを失い、木戸は失踪、尊王攘夷派の家老は軒並み切腹と、人材を軒並み失って断崖絶壁へと追い込まれる。サバイブしたのが奇跡だが、ここに天才、高杉晋作と大村益次郎が遂に表舞台へ登場し、度重なる戦争で体得した実地訓練の強みを見せつけて、遂には倒幕へとなだれ込む。

その長州による時代回転の幕を開けた下関での一方的攘夷戦と、その後の馬関戦争について、フランス、オランダのことはわからないので、戦艦ワイオミングをはじめとする米海軍と、ヒコの記録から、彼等側から見たこのあたりの日本を紹介します。

なんで長州は紹介して薩英戦争を紹介しないのか!という声はあると思いますが、なぜならそれは、日本側の状況について、薩摩関係には詳しくない、幕末は長州関係しか知らないせい、ということでお許し頂きたい。。。

言い訳:

  1. 1.以下、固有名詞が英語読みなので、フランス語、オランダ語をご存じの方は、あ、あれのことかな?と比定して下さい。

  2. 2.船用語、戦争用語がわからんので、バカが書いた文になっていて恥ずかしいことこの上ありませんが、そういった語をご存じの方は、こいつバカじゃん...と笑ってから、それはこう言うのだ!とご教示下さい。

  3. 3.以下はアメリカ人である彦蔵と新聞記者のフランシス・ホールの記述を基にしているので、固有名詞がよくわかりません。サトウは人の名前をちゃんと書く人なので、対比させようと思ったら、サトウはこの時期、薩摩の方に出ばっていて、下関の方の攘夷決行が書かれていないため、こちらも、わかる方、是非ご教示下さい。

 

長州藩の攘夷戦争

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*長州の一方的攘夷決行、それに対する四か国の報復戦のことで、四境戦争のことではありません。

ここではアメリカのことしか書いていません。