イギリス(UCL)留学(1865)した薩摩留学⽣のうち、畠⼭義成、松村淳蔵、吉⽥清成、森有礼、鮫島尚信、⻑澤⿍の6⼈が、イギリス⼈外交官オリファントと共に、アメリカの新興宗教であったトーマス・レイク・ハリスの教団に参加のため渡⽶。
NY州⻄端、エリー湖に近いブロクトンで、ハリスの教団員と共に集団⽣活。主に、農業や⼤⼯仕事に励む。68年6⽉、教義や将来に疑問を覚え、教団を離脱。MA州モンソンにいた薩摩留学⽣(仁礼景範、江夏蘇助、吉原重俊、種⼦島敬助、湯地定基)を経て、オランダ改⾰派教会海外伝道⻑のフェリスを知り、同教会の援助でNJ州ニューブランズウィックのラトガース⼤学に進学。ハリス教団から、吉⽥、松村も離脱して畠⼭に合流。
⾦策に苦労しながら、ラトガース⼤学に通う。ニューブランズウィック周辺には、横井兄弟(⼩楠甥の⼤平、左平太)、⽇下部太郎(福井)、勝⼩⿅(海⾈⻑男)、富⽥鉄之介(仙台)、⾼⽊三郎(庄内)らが既に留学しており、同地の薩摩留学⽣およびモンソンにいた薩摩留学⽣、新島襄などが交流する。
後年、留学が許可になると⽇本からの留学⽣が増え、畠⼭は留学⽣の世話役、監督役として奮闘。1868年末頃にはキリスト教に受洗する。
⽇本政府から、ヨーロッパの教育制度を調査しながらの帰国を命じられ、ラトガース⼤を中退、アメリカを発つ。
フランスまで⾏ったところで、岩倉使節合流のためアメリカへ戻るよう命令を受け、造幣関係の任務でドイツ、フランスに滞在していた吉原重俊(当時の変名は大原礼之助)と共にアメリカへ戻る。
岩倉使節合流後は、久⽶邦武と共に岩倉具視の書記として訪問先の取材につとめ、アメリカ滞在中に憲法翻訳勉強会を通じて⽊⼾孝允とも親しくなる。
岩倉、久⽶と共に帰国後、⽂部省に出仕。ラトガース教授時代から親しい学監モルレー(ここではマーリーとも⾔っている。Murrayはカタカナだとマリーに近いが、マリーでは⼥性の名のようなのでマーリーにしたが、⼀般的にあモルレーと⾔われるようなのでモルレーとも書いていてすみません)と共に、⾼等教育システムの基礎を築く。
開成学校、その予備⾨的な外国語学校の校⻑をはじめ、博物館、書籍館の館⻑、⼩⽯川植物園園⻑、⽂部⼩丞、中督学であり、天皇に⻄洋について教⽰する役も務めた。
ほかに、佐賀の乱の際の九州派遣(詳細不明)、⾦星の⽇⾯通過観測にも参加した。
モルレー夫妻とは個⼈的にも親しく、結核が進んだ1875年春頃からは、モルレー宅(現在の東大農学部あたり、当時の言葉で「加賀屋敷」に文部省関係のお雇い外国人が住んでいた)に同居する。
主に、結核に冒された畠⼭を休ませる⽬的で、モルレーがフィラデルフィア万博への派遣を求める。⽥中不⼆麿らと参加し、6⽉にはラトガースから名誉修⼠号を受けたが、回復せず、⽇本へ帰る船の中で死亡。後の京⼤(旧制三⾼)校⻑となった折⽥彦市が付き添い、彼をはじめとする同乗の万博随⾏員らが死を看取った。