⼟岐四郎について
市成のある輝北町(現在は⿅児島県⿅屋市)の「輝北町郷⼟誌(2000年)」には、敷根家の家系が説明されている。そこでは、⼟岐四郎に相当する⼈を島津久_、⼆階堂⾏の⽅も⾏_と書いていて、両⼈とももう⼀字あるらしい。
久☐の名は何であるかについは以下の説がある。
輝北町の⽂化財報告書には、正五位を受けた(明治34/1901年)件に関して「久宝」と書かれている。
明治15年に島津久頼(初めて島津姓を名乗った⼈)から200年を祝って祭を⾏ったときのことについて、「市成村郷⼟史(昭和5/1930年発⾏)」には、「宮園の墓地のお堂の壁に『⼟岐四郎久賀謹書』と書き残した」とある。
同じ件について、「輝北町郷⼟史(1966年)」には「⼟岐四郎源久宝謹書」とある。 (以上1~3は「輝北町郷⼟誌」より)
「『さつま』の⼈名の歴史」には「式部久之」とある、という。
「市成村郷⼟史」には、久頼200年祭当時の当主として「久賀」の名がある、という。
輝北町郷⼟誌では、久賀と久宝が同⼀⼈物かどうか確認出来る資料はない、 としている。
結論からいうと、久賀は⼟岐四郎の息⼦で、⼆⼈は同⼀⼈物ではない。これは興国寺墓地にある⼟岐家の墓の歴代当主名による。
島津弾正と式部
市成の島津弾正邸の裏⼭から久光/忠義親⼦が薩英戦争(⽂久3年/1863年)を⾒ていた話が吉村昭著の⼩説「⽣⻨戦争」にあり、これは何らかの史料に書かれているはずなのだが、みつけていない。
「薩英戦闘⽇乗」には、以下の記述があった。
亥6⽉29⽇ 市成島津弾正宅へ被為⼊(市成の島津弾正の邸へ⼊られた)
7⽉1⽇ 市成屋敷飯汁漬物振舞有(市成の邸でご飯と汁と漬け物が出た)
ここでも市成島津当主は「弾正」とある。
武鑑によれば、⽗親の久誠の⽅は右膳/主⽔とあり、弾正はその息⼦になっている。従って、これを信⽤すれば、薩英戦争時の市成家当主は、右膳/主⽔久誠ではなく、弾正=⼟岐四郎と考えられる。
その後、⼟岐四郎は戊⾠戦争時(1868年)には式部を名乗っている。(国⽴公⽂書館デジタルアーカイブ参照)
弾正と式部が同⼀⼈物である根拠は、「薩英戦闘⽇乗」では、薩英戦争時の市成島津当主は弾正。市成島津の当主は⼟岐四郎⼜はその⽗親だが、弾正を名乗ったのは畠山の兄の⼟岐四郎なので、薩英戦争当時の島津弾正は⼟岐四郎となる。
土岐四郎の叙位の際の書類(国⽴公⽂書館デジタルアーカイブ参照)には「⼟岐四郎「旧称」島津式部」とある。
上記2点から、⼟岐四郎が薩英戦争時には島津弾正を名乗り、戊⾠戦争時には島津式部を名乗っていたと考えられる。