幕末から明治のごく初めにかけて、日本から欧米に渡った使節団、留学者たちの一覧です。

主な留学者

榎本武揚、津田真道

文久2年~慶応3年 幕府オランダ留学生
幕臣のエリート洋学者

西周

文久2年~慶応1年 上記と同時出発。帰国が早い?(それぞれ帰国時が別らしく、不明)

新島襄 米ベルリン号

元治元年(1864年)に函館からアメリカに密航。大西洋、川船の大商人だったハーディの援助でアマースト(ボストンの近く)大学、アンドバー神学校卒業。帰国後、同志社を築く。

  1. 留学時に薩摩、福岡の留学生にキリスト教を教える。

  2. 薩摩留学生のキリスト教受洗に大きな影響を与えたと考えられるが、お互いの書簡など、証拠がない。日記やハーディへの書簡には交流の様子が書かれている。

長州ファイブ 英ジョーディン&マセソン社の船

文久3年出航。有名なのでメンバーは略。

幕府イギリス留学生

慶応2年
http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai95-2/bak5.html
中村正直(敬宇)、川路太郎、箕作秋坪の長男(奎吾)、次男(大六)、福沢の弟(実際は弟ではない。福沢の弟、福沢英之助の名で渡った福沢の弟子、和田慎次郎であるという)、林董など。
中村正直が毎朝漢籍を朗読していてうるせー、と思っていた林董が覗いてみると、朗読ではなく暗唱だった、どひゃ〜、という話が、近デジの林董著「後は昔の記」という超おもしろ本(自分には)に載っている。

薩摩 ヨーロッパ 留学生

慶応2年(1865年)
総勢19人がインド洋経由でヨーロッパへ。イギリス到着後、それぞれの留学先へ。
代表が新納刑部で、松木弘安(寺島宗則)、五代友厚などが引率。メンバーについてはWiki(私が書きました)をご覧下さい。そして、更新お願いします。ヨーロッパに残った人たちについては、あまり知らないので、基本的なことしか書いていませんので。

薩摩アメリカ留学生(その1)

慶応2年(1866年) マサチューセッツ州モンソン

吉原重俊、種子島敬輔、湯地定基、仁礼景範、江夏蘇助、木藤市助がメンバー。こちらもWikiに書きましたが、上記ヨーロッパ組と見出しが揃っていません。既に見出しがあるものは、変えられない(?)ようなので。。。

薩摩藩からの留学生としては「第二次」と呼ばれるが、アメリカへは、彼らの方がヨーロッパから移って来る一団よりも早いので、アメリカへの「第一次」とも呼ばれる。

  1. 主に、寺田屋事件の関係者(両方)、精忠組の猛者がメンバー

  2. NYの商人フォッグ(William Hayes Fogg)を介していた。

  3. 開港後、初期に日本へやってきたサミュエル・ロビン・ブラウン牧師との関係が深い。モンソンは来日前にブラウンが長く住み、牧師を務めた町。

薩摩アメリカ留学生(その2)

慶応3年(1867年)

畠山義成、吉田清成、松村淳蔵、森有礼、鮫島尚信、長沢鼎が、上記ヨーロッパから転出。ハリス教団を経て、森、鮫島が帰国、長沢がハリスの元に残って、後にカリフォルニアでワイン作りに成功を収めた。畠山、吉田、松村がアメリカに残り、大学へ通う。

  1. 松村淳蔵は、米国士官学校のアナポリス卒業第1号。帰国後、海軍兵学校を作る。

  2. 畠山について、及び、この留学生たち周辺については、拙サイトをご覧下さい。

日下部太郎

慶応3年(1866年)アメリカ、ニューブランズウィック(NJ州)
アメリカの大学卒業生第1号。幕府の禁止が解けてすぐ福井から送られた留学生。諸藩士としても公認留学生第1号。日下部は卒業間際に死亡し、留学先のラトガース大近くWillow Grove Cemeteryに墓地がある。

勝小鹿(海舟の長男):慶応3年 

アメリカ、ニューブランズウィック(NJ州)
随行として、高木三郎(庄内藩)、富田鉄之助(仙台藩)。同じ船に、船員として高橋是清が同乗したという。

  1. 富田は後に初代日銀総裁の吉原重俊(薩摩からの留学生仲間)を助けて、副総裁となる。アメリカで通っていた商学校の代表、ウィットニーの娘が、小鹿の義兄、梶梅太郎(母親が違う)の奥さんのクララ。

  2. 高木は富田が帰国後もアメリカに残り、長く領事役を務めた。

  3. 是清は、乗って来た船も富田と一緒だったが、帰りも富田が連れ帰ったという話がある。

花房義質、柘植善吾:慶応3年

慶応2年ボストン
花房と柘植は、ヒコ(ジョセフ・ヒコ、または浜田彦蔵)の自伝の中で、67年2月12日に日本を出ている。これは、フレンチ(Aaron Weld Davis French)という別の商人を介している。

  1. この二人は、慶応二年のフランス万博のメンバーにも入っている(徳川昭武幕末渡欧日記)ので、どういうことか不明。

  2. ボストンには他に、井上良一、青木善平(薩摩の江夏、仁礼と共に帰国)、平賀義質、本間英一郎などがおり、このうち三人にキリスト教を教えた話も新島の書簡、日記にある。

  3. 井上良一については、いしたきとよみ氏のブログ内にある「ボストンの侍」に詳しく書かれています。

青木周蔵、河瀬真孝(石川小五郎)

青木は 1868年、河瀬は1867年か?青木はもっと早いという話もある。青木がドイツ、河瀬はイギリスへ渡る。幕末期の河瀬は過激派の志士、石川小五郎として知られる。

岩倉具定(具視の次男)ほか岩倉子息3名と戸田氏共

三男のタツ(三男具経)が1870年、アサヒ(次男具定)とミナミ(養子?具綱)、戸田(娘婿)は1871年と思われる。岩倉家の息子たちは、日本語名がなぜか思い出せないので、サイト内でこんがらかっている恐れあり。基本的に以下の通り。

  1. タツが一番若く、アメリカ滞在も早く、長い。

  2. アサヒはタツの兄で、岩倉使節到着当時に病気になり、帰国する。

  3. ミナミはアサヒの兄。しかし、どうも長女の婿で養子らしい。アメリカ滞在は短い。

  4. 戸田は奥さんが美貌で知られた極子。伊藤博文と艶聞あり(だったと思う。裸足で逃げて黒田が怒ったとか、そんな話)。

その他の留学生

木戸正二郎(孝允養子、イギリス)、大久保利和と牧野伸顕(大久保利通長男、次男、アメリカ)、山川健次郎(会津藩、エール大卒)、奥平昌邁(中津藩主、宇和島藩主の伊達宗城三男、アメリカ) 、鍋島直大(佐賀藩主、閑叟の長男、イギリス?)、佐土原藩主の子供三人(NYのフラットブッシュと思われる)などなど。

 

幕末明治に海外へ渡った日本人たち (2)