1842年、土佐の漁師だった万次郎は12人の乗組員の一員として太平洋で遭難。鳥島に漂着し、生死を彷徨いながら、米国の捕鯨船に救助される。大人4名はハワイで下ろされるが、船長のウィットフィールドに気に入られた万次郎は、本人の希望で船長と共にアメリカに渡る。アメリカではマサチューセッツ州のオックスフォード校に学び、英語のほか、航海術、数学などを修得。ウィットフィールド夫妻を初めとするアメリカ人社会でも愛され、21才のときには、乗船していた捕鯨船フランクリン号船長の病気による降船に伴って行われた船長選挙で、過半数を獲得。船長は年長のアイザック・エイキンに譲ったものの、First Mate(一等航海士)に昇格してアメリカへ帰還する。その後、ゴールドラッシュのサンフランシスコに渡り、2丁拳銃にテンガロンハットで荒くればかりの49ersでも成功し、ここで得た金で自身の舟を購入。しかし、帰国の希望は消えず、1850年12月、本人の購入した捕鯨船でハワイへ向かい、共に遭難し、ハワイに残された日本人船員を伴って日本への帰国に向かう。

琉球についた万次郎一行は、長崎に送られるが、拘留の後、放免されて1851年に故郷の土佐に戻る。1853年には、その英語力や西洋技術の伎倆を見込まれ て、旗本として幕府に招聘される。土佐では、のちに坂本竜馬の師事した河田小龍が、万次郎の話を「漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)」としてまとめている。 (これの英訳版、版権的に怪しいかもしれないのでリンク載せませんが、探すとみつかります>これを書いた頃はみつかったのですが、もうみつけられません。そのかわり、何度目かの龍馬ブームにより、情報はネットでご覧下さい)

帰国後は、咸臨丸の通訳(兼事実上の船長)、現在の東大である開成所教授等を勤めた。その後もウィットフォード一家、ハワイ、アメリカで交流のあったデーモン神父との交流が続いており、現在もそれぞれの子孫の方々と共に、日米交流に大きく貢献し続けている。

井伏鱒二のジョン万次郎漂流記をはじめ、多くの伝記があるが、万次郎の子孫が3代(最近4代目の博氏が久々の伝記を出版)にわたって万次郎に関する本を出版していることでも有名。

リンク

オールド・ダートマス/ニュー・ベッドフォード捕鯨博物館の万次郎、ウィットフィールドに関するページ(英):
http://www.whalingmuseum.org/kendall/old_nb/old_nb_manjiro.html

ジョン・万次郎ソサエティー(英):http://www.manjiro.org/

土佐清水市公式サイト:http://www.city.tosashimizu.kochi.jp/john/

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音吉と比べると、わずかな時代の違いが、これほどまでに人生を違えてしまうところが恐ろしい。

音吉の方は、船員として労働するのみで、各国の思惑によって世界を2周くらいしても日本にたどり着かなかったが、船長についてアメリカに渡り、アメリカ人同様の教育を受けた万次郎は、帰国後、旗本にまで取り立てられる。漁師だった万次郎は、アメリカではじめて学習らしい学習をするわけだが、二十歳そこそこで 自分の捕鯨船を持つというのは、強運の持ち主であったことは勿論だが、聡明であることに加えて、リーダーシップも持つ人であったであろうことが知れる。

万次郎関係の記述には、アメリカで愛され、船の乗組員にも慕われたという話が目立つ。その一方で、日本に帰って来た万次郎が、旗本になっても元の漁師として見下されたり、アメリカのスパイと目されたりする話もある。

不思議なことに、万次郎は、その後日本に巻き起こる攘夷vs開国熱にも、明治になってから起こる西洋熱のようなものの中でも、それほどの目立った活躍をして いない。また、少年として自由の大地アメリカで活躍し、船長になるまでの成功を果たしながら、何度か訪米はしているが、米国に帰化もしなかったのはなぜだろうか。捕鯨船を操った万次郎は、幕末の戦争で海軍の士官にはなり得ただろうし、彼の知識と勇気をもってすれば、相当な艦隊を率いる英雄にもなれただろうと思う。旗本にとりたてた幕府が、彼の才能と可能性を理解し得ず、むしろ、アメリカにも帰国させないプレッシャーをのみ与えたのだろうか。或いは、アメリカの正義と日本の正義は、彼の中で情熱になり得ない矛盾を育てたのではないだろうか、というところに関心があるので、引き続き調査したいと思います。

ともあれ、万次郎からウィットフィールド宛に書かれた手紙の抜粋には、「1000回分、ありがとう。皆さんの親切には、どんなに感謝してもしたりない」とあり、若き日のはつらつとした、素直な感謝が込められていてほほえましい。音吉や万次郎の他に、多くの船員が漂流の末、歴史に名も残さずに消えている事実はあっても、歴史に名を残した彼等は、世界は悪い奴ばっかじゃないよー!ということも伝えているのが嬉しい。運命と各国の欲に翻弄され、日本には自分の意志で帰国しなかった音吉が、キリスト教徒の間に重要な功績を残していることと、万次郎がアメリカで事業に成功して日本に無事帰国するのは、外国に住む日本人としては、感謝したい2つの先駆人生である。

余談だが、万次郎のご子孫の方はデトロイトで日本商工会議所にいらっしゃらないだろうか。どこかでそんな話を聞いたことがある。

ところで、河田小龍の「漂巽紀畧」に坂本竜馬は影響されているのだろうか。竜馬が小龍に師事するのが安政年間なので、当時、むしろ感情的攘夷論者であった竜馬は、当初特に注意を払っていなかっただろうか。万次郎は、竜馬の師である勝海舟と後に咸臨丸でアメリカに渡っているので、当然知り合いであったろうし、そのもっと後で海軍屋になっていく竜馬が、自分の捕鯨船を持つような船乗りの万次郎と目立った交流を残していないようなのは、ちょっと不思議だ。やはり、灯台下暗し だろうか。当時の日本では自他共に認める名君・山内容堂が、これだけの実績を持つ万次郎をあっさりと幕府に取られているのも残念な話である。かなり聡明な 感じのする万次郎の方が、竜馬とは毛色を違えていたのだろうか。アメリカ人ウケするタイプの竜馬と、半分アメリカ人化していた万次郎が意気投合していないのが大変残念だが、この二人の関係も関心のあるところではある。

万次郎、2度目の訪米の謎

日本に帰国後、咸臨丸で万延元年(1860)にアメリカへ渡った万次郎は、1870年にもアメリカを訪れている。このときの同行者は、大山巌、品川弥二郎を主体とした普仏戦争見学隊だが、なぜか万次郎は途中で帰国している。

病気による帰国とされているが、英語のわかる、というよりも、英語の方がわかる万次郎が、それも、捕鯨船で頭角を現し、49ersと渡り合うような万次郎が、なぜイギリス、またはアメリカで治療をせず、遠路はるばる日本まで帰ったのか?ここが納得いかない。自分としては、何らかの理由によって、帰されたのではないのか?という思いが強い。この疑問については、畠山義成についての拙サイトのページもご覧下さい。

 

中浜万次郎 ジョン万次郎 John Mung