現在のカナダ国境に近い米国オレゴン州フォート・アストリアで、1829年、当時この地をパシフィック・ファー・カンパニーと共に支配していた英国(スコットランド)ハドソンベイ商会の商館員、アーチボルド・マクドナルドと、当地の先住民であるチヌーク族インディアン酋長の次女レイブン(Raven、大カラスの意味なので、スティーブン・キング的でちょっと恐い。サンデー王女とも呼ばれる)との間に生まれる。

アメリカ西海岸へと進出を果たし、毛皮貿易で富を築いたハドソンベイ商会等、入植して来た西洋の商人たちは、先住民との親睦、交易の潤滑に進むことを目的に、駐在商館員たちに現地の女性との結婚を奨励していた。

レナルドの母、レイブンは早くに亡くなるため、祖父であるチヌーク族酋長のコムコムリーに育てられる。その後、現在のカナダ東海岸のマニトバでレッドリバー・アカデミー校に通い、アーチボルドの後妻となったジェイン・クラインにも可愛がられ、銀行員になるが、その生活に飽き足らず、船乗りとなり、憧れの日本への渡航を企てる。

当時、レナルドの生誕地にほど近い地域に音吉らの漂着があり、何らかの影響を受けたとみなされているが、後のサトウなども純粋な憧れで日本にやって来るように、その頃、鎖国状態にあった日本は西洋の船員の間で黄金の島、ユートピアとして半ば神格化されており、インディアンの血を継ぐマクドナルドは、遠い昔、同祖であっ たという日本に恋こがれていた。

1845年、捕鯨船プリモス号(ペリー艦隊に同名の船があるが、こちらは捕鯨船なので別の船)の船員となり、1848年、捕鯨で近付いた利尻島沖で、船長に下ろし てくれるよう願って、ボートで一人離船する。捕鯨船が去り、一人漂流しているところをアイヌに助けられ、松前藩、函館奉行を経て、長崎へ送られ、長崎で10か月拘置されるが、ここで12人の弟子を取る(この12人の名前、そのうちアップします)。その中の一人が、後に幕府きっての通訳となり、ペリーとの日米和親条約にも訳者として名を残す森山栄之助である。当時の日本では蘭学のみが西洋の学問で、英語を解するものは殆ど皆無に等しかった(佐久間象山がいうに、ペリーの頃で両手で数えられる程度)が、森山らは、英語を母国語とする教授について英語を教わった英学者第1号となり、マクドナルドは日本に来た、初めての英語を母国語とする英語教授となった。

日本人に英語を教えたい、自分も日本語を学びたいという希望を抱きながら、ついに牢から出ることはかなわず、翌1849年に長崎にやってきた米国軍艦プレブル号の船長、ジェームス・グリンに他の漂流者15(17?)人と共に引き渡され、帰国を余儀なくされる。

帰国後、米国議会に、日本の治安の良さ、日本人が礼儀正しく、高い精神社会にあることを紹介したが、その後も船員として世界を巡り、彼の貴重な日本見聞録は、20世紀初頭まで振り返られることがなかっ た。

現在のカナダ、ブリティッシュ・コロンビア州、米国ワシントン州等に住んでバンクーバー島の開拓にも関わったが、マクドナルド自身は、再び日本を訪れ ることなく世を去る。死ぬ際に、姪の腕に抱かれ、「soyonara, my dear, soyonara...さよなら、愛しいものよ、さよなら」と言ったと伝えられている。

吉村昭氏の「海の祭礼」などでその功績を讃えられ、現在は死地となったワシントン州フェリー群のCurlew Lake State Park の墓所をはじめ、北海道の利尻、長崎、故郷のオレゴン州アストリアに記念碑を持つ。生誕地アストリアの記念碑には、日本語で生涯を紹介した文が彫られ、ワシントン州の墓所には以下が記されている。

RANALD MacDONALD 1824-1894

SON OF PRINCESS RAVEN AND ARCHIBALD MacDONALD

HIS WAS A LIFE OF ADVENTURE SAILING THE SEVEN SEAS

WANDERING IN FAR COUNTRIES BUT RETURNING AT LAST TO REST IN HIS HOMELAND. SAYONARA-FAREWELL

ASTORIA EUROPE JAPAN THE CARIBOO AUSTRALIA 

FT COLVILLE


レナルド・マクドナルド1824-1894

レイブン王女、アーチボルド・マクドナルド息子

七つの海をわたる冒険的生涯は遥かなる国々をめぐり、この生誕地に還る

さよなら、Farewell

アストリア、ヨーロッパ、日本、カリブー、オーストラリア、フォート・コルビル


リンク

墓所:http://www.interment.net/data/us/wa/ferry/mcdonald/ranald.htm

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生誕地がイギリス(後のカナダ)、アメリカ、インディアンの分割統治であったことと、彼自身がスコットランド人とチヌー ク・インディアンの混血であるため、日本の他、アメリカとカナダ、イギリスに名を残し、チヌーク・インディアンにもその功績を讃えられているマクドナルドは、幽閉されて英語を教授する姿に、吉田松陰の面影が重なる。この後、大挙して列強が開国を迫る姿や、商人、宣教師がそれぞれの思惑で日本へやって来るのに比べると、その純粋な好奇心はむしろ哀れを誘う。吉田昭氏の「海の祭礼」では、東海岸の学校に通い、銀行員になったマクドナルドが、インディアンとの混血として差別され、制限された将来に満足し得なかった点を指摘している。

鎖国状態にある日本をユートピア視してやってくるマクドナルドに、囚人の生活をさせる日本人に痛み入るが、わずかな救いは、後に幕府きっての通訳となり、日本の通訳翻訳界では神(?)とも呼べるような位置にある森山栄之助を初めとする洋学者たちとの交流であろう。通商、開港を迫る外国人には断固退去を命じる幕府が、マクドナルドに対しては、望む日本語/英語の学習を許すあたりは、当時の日本人が単なる鎖国バカでないことを伝えていると思う。

マクドナルドの日本渡航への希望は、わたしの愛するソール・ヘイエルダール(コンチキ号漂流記で有名なノルウェーの冒険考古学者。このウェブサイトのタイトルに「長耳」を用いているのは、彼のイースター島での業績をたたえたもの)にも通じる。登山家は山があるから登ってしまうが、船乗りは、海があるから渡ってし まうのである。海の向こうには何があるのか?という単純にして深遠な興味を満たす、ただその目的のためだけに、ヘイエルダールはイカダで太平洋を渡り、マクドナルドは鎖国にある日本に来てしまう。囚人生活を余儀なくされながら、漂着した利尻、その後の函館、長崎で出会った人々に、限りなく親愛と敬意で対し、日本側の人々も、幕府の政策に制限されながらも、出来る限りの親愛と敬意で対している。欲と名誉のためでなく、純粋な好奇心で異常とも思える行動に出る人々の苦難と喜びを、マクドナルドも代表しているだろう。

尚、日本側の記述では、名をレナルドではなく、ラナルドと書いているものが多いが、アメリカで言った場合、その発音に大変近いロナルド・マクドナルドという超有名人(ハンバーガーのマクドナルド創始者)がいて紛らわしいので、あえてレナルドとした。また、彼がNative American(アメリカ原住民、日本語のインディアン)であるために、英語に、日本初のNative English Speaker(英語を第一原語とする)とNative Americanをもじった表現を用いている記述が多いが、日本語でネイティブという語を使うと混乱するので、長ったらしいが、英語を母国語とする西洋人というような表記をした。

米国ワシントン州の国税調査記録として、1887、1892年のごく簡単な記録があるが、婚姻のところが空欄なので、結婚しなかったのかもしれない。人種の項目にインディアンとのハーフというのがあるのが面白い。この時代には、1/4以下の混血がいなかったのか、少しでも混じったらハーフなのか(多分こっち。いま現在どうか知らないが、何年か前の知識で、黒人は1/8以下でないと白人として登記出来なかった)、ちょっと興味を持った。

 

レナルド・マクドナルド(米)

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