進水: 1782年6月12日
944トン
全長:141フィート
船腹:13フィート 10インチ
38門フリゲート

1808 年、オランダはナポレオン軍フランスの支配下にあり、フランスはオランダを対英国戦略に用いていたため、イギリスはオランダ船の拿捕を始める(この辺、イ ギリスのいい分なので、フランス、オランダのいい分に詳しい方、ご一報下さい。そして、この話とは関係ないけど、こういう論理で迫って来る当時のイギリス はすごいと思う)。

フェートン号はオランダの貿易船を攻撃すべく、10月長崎に入港、オランダ国旗を挙げて、オランダ戦の到着を待っていた。

出島のオラン ダ駐留員はいつも通り、これを迎えに出てフェートン号に拿捕されてしまう。フェートン号は食料、水、燃料と拿捕したオランダ駐留員の交換を求める。

長崎防衛担当の佐賀藩は、1000人の兵隊を常駐させる決まりながら、太平の世ゆえ、100人(150人、70人とも)しかおらず、長崎奉行松平源平衛(康英?)は、急遽九州から8000人の兵と40艘の武装船を召集したが、到着が遅れ、長崎奉行はフェートン号の要求に応える。

オランダ戦の年内入港はないと 知ったフェートン号は2日後の10月17日に長崎を去ったが、この事件の責任を取り、長崎奉行は切腹、佐賀鍋島藩は藩主が閉門となる。

この事件で、異国船打払令(無二念打払令)が1825年に発せられるが、1842年に廃止された。また、オランダ語重視の幕府は英語、ロシア語教育の急務を感じ、1814年、初の英和辞典を蘭語通訳本木昌左衛門が編纂する。


上 記は主に英語版Wikipediaを参照していますが、長崎奉行の名前が日本側の資料と違っている様子。英和辞典作者についても、現時点では不確かのため、フルベッキの教え子で日本印刷界の父、本木昌造の養父が同名のため、この人に仮定しましたが、この人は、ここで紹介しているマクドナルドの教え子の1人らしいので、年代があいません。その父、昌栄という話もあるので、それが正解ではないでしょうか。詳しい方、ご一報下さい。

 

フェートン号(英国王室海軍フリゲート)

HOMEへ戻る