1832年、雑貨や米を尾張から江戸に輸送中の千石船(約150 トン)宝順丸で遭難し、音吉、久吉、岩吉の3人は現在のカナダ/アメリカ国境辺りの西海岸湾岸(現在のワシントン州)オリンピック半島アラバ湾にたどり着いた。その辺りは、マカー族インディアンの土地で、三人はマカー族の船乗りとして生活を始める。

当時、この地域は英国ハドソンベイ商会が事実上支配している土地で、コロンビア区の同商会員ジョン・マクローリンが彼等三人を引き受けた。鎖国の日本との通商開始に食指を動かされたハドソン商会には、彼等の日本への帰国と共に、日本政府との交渉を求めて、東南アジア経由で日本へ送り届けようという野心があったからである。しかし、鎖国状態の日本への渡航には英国王室からの許可が下りず、マカオまで送り届けてハドソンベイ商会は音吉らの帰国から手を引いた。

マカオで彼等に興味を持ったのは、ドイツ人プロテスタント宣教師のカール・ギュツラフであった。中国での布教に功績を残し、香港に墓所を持つギュツラフは、日本での宣教活動を求めて、彼等3人を寄宿させ、日本語聖書の作成を試みる。彼等3人の訳した「ハジマリニカシコイモノゴザル(はじまりに賢いものござる= 初めにロゴスあり)」ではじまるヨハネ福音書を含むギュツラフの聖書は、日本でキリスト教が禁止されて以来、久々の日本語聖書となった。

その後、アメリカ人商人のチャールズ・W.・キングが、やはり日本との通商を求め、この3人に薩摩(ではなく、肥前という話もあり)からの遭難者4名を加えた7名を商船モリソン号に乗せ、日本へ向かう。このとき、キングが日本側に渡した手紙には、以下のように書かれていたそうだ。

「米国船はどこの国のものよりも速い。日本が国交を認めれば、常に最先端の情報を得ることが出来る。(中略)我が国民は貴国を訪れたことがないが、遠い昔、世界中の商人がその港を訪れたことだけは知っている。その後、法が変わり、国交は断絶、制限されてしまった。いま、ここにはじめて悪意なく日本を訪れ、友好的な関係の始まりの承認を要請する」

ところが日本はこの頃、フェートン号事件によって発令された異国船打払令によって外国船の入国を禁じているばかりか、ようやく故国にたどり着いた音吉らは、 日本からの砲撃にさらされてしまう。日本を目の前にして、マカオへ帰されてしまう音吉ら遭難者たち。これにシーボルトの鳴滝塾卒業生等を中心とする尚歯会の開明主義者、渡辺華山、高野長英等が異論を唱えたため、蛮社の獄へとつながることになる。

音吉はその後マカオ、シンガポール等に住み、マレー人と結婚。後にイギリスに帰化して、イギリス海軍の通訳として、イギリスとの条約交渉時には通訳として日本へもやって来るが、日本には帰国せず、ジョン・マシュー・オットソンを名乗った。音吉らの家族は、遭難時に死亡したものと考え、遺体はないまま愛知県美浜町の良参寺に乗組員14人の墓を建てたが、2004年にシンガポールで音吉の墓所が発見され、2005年、173年を経て、同地に遺灰が埋葬された。

ギュツラフが音吉らの助けを借りて訳したヨハネ福音書を含む聖書は、ギュツラフの手によっては日本に辿りつかないが、その後、日本での布教活動にやってきた ジェームス・カーティス・ヘップバーンによって日本への上陸を果たす。ヘップバーンは、ヘボン式ローマ字の発明者として、その後の日本に大きな足跡を残し たヘボン氏である。

なお、その後、竹内下野守を代表とする幕府の渡欧使節(文久1年出発)がシンガポールで使節に会い、そのとき、音吉が涙ながらに苦節30年を語ったという。杉孫七郎の記録にあるらしいが、その記録自体を入手していない。ぜひ知りたい。(後日談:すぎまごの文は漢文であるため、読めませんでした)

リンク

日本聖書協会:http://www.bible.or.jp/know/know15.html
ギュツラフ訳ヨハネ福音書(音吉らの訳):http://www.bible.or.jp/purchase/newbible/gutzlaff.html
音吉物語(PDF版冊子内の記事):www.bible.or.jp/soc/pdf/sower_no19.pdf

愛知県:http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/chita/chi034.htm

マカー族(英語):http://www.makah.com/

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音吉とモリソン号事件で興味深いのは、キリスト教と尚歯会への影響だろう。

聖書和訳に関わった音吉らと、ギュツラフ、ヘップバーンに関する情報は、幕末史よりも、キリスト教関係のウェブサイトでみつかりやすい。特に、日本聖書協会のサイトでは、三人を救助したマカー族との親睦を図っている記事や、聖書とギュツラフ、音吉らの話も紹介され、復刻版の音吉らの訳したヨハネ福音書を販売している。私自身はキリスト教徒ではないが、「はじめにロゴスあり」で始まる西洋人にも理解に難しいと言われるヨハネの福音書を、「はじまりに賢きものござる」と訳した彼等の感受性に敬意を表したい。音吉らの話は、キリスト教徒作家として著名な三浦綾子さんの小説「海嶺」にもされている。

音吉たちを救助したマカー族は、彼等を奴隷同然に使っていたという記述もあるが、実際にはそういうことではなく、言葉の通じないインディアンにとって、それ以外に彼等を生活させるすべがなかったのだと思う。よく素性のわからん人が肉体労働していると、「奴隷」と言ってしまう西洋人の感覚の方に問題があるだろう。この頃(現在もそうだが)、インディアンは西洋人の入植によって生活圏を狭められ、音吉らのたどり着いた地域は英国のハドソンベイ商会と米国のパシフィック・ファー・カンパニーが事実上支配しており、その後、英国領がカナダとなることでわかるように、紛争地帯でもあったため、遭難した彼等を救助し、生活させてくれたマカー族には感謝すべきだろう。

音吉ら自身にとってはいい迷惑だが、彼等には、それぞれの思惑で、イギリス商人、ドイツ人宣教師、アメリカ商人、布教活動家が関わって来るところも面白い。既に列強の通商地、植民地となっている東南アジアから中国にかけて、いろんな目的で日本の開港を待ち望む西洋人がひしめいていることがわかる。しかし、これらの様々な欲と野心と希望に翻弄され、日本への帰国を断念してしまう音吉は、アメリカで捕鯨船を所有するほどの成功をおさめた中浜万次郎が日本に帰国し て、旗本になってしまうのと大きく対比する。わずかな来航年の差がもたらした運命のあまりの差にも驚くが、恐らく、元々の二人の性格が異なるのだろう...と思うと、興味が尽きない。

もう一つの影響として、この後日本へやって来る、初めての英語を母国語とする英語教師、レナルド・マクドナルドに影響を与えた(であろう)とされているところも、幕末史に与えた大きな影響は図り知れない。

しかし、日本の幕末史にとって最大の影響は、高野長英が「戊戌夢物語」 でこの事件を批判したことにはじまりの一端を担う「蛮社の獄」だろう。

尚歯会の一員で次の時代に生き残る江川太郎左衛門英龍が、黒船以降の防衛策に大きな功績を残すことなどから考えて、長英、華山などの死が悔やまれるが、これらの弾圧なしには幕末のエネルギーは生まれてこないので、偶然と必然の絡みはじめる時代の幕を開けた事件とも言える。幕末に奔走した志士たちは、果たしてその情熱のはじまりにあった賢きもの、音吉らの存在を知っていただろうか。必ずしも英雄潭ではない音吉自身の人生は、キリスト言うところの「一粒の麦死なずば」であったと言えるだろう。

海舟のツッコミとモリソン

ところで、長英の「戊戌夢物語」は読んだことがないので、内容は知らないが、勝海舟の談では、モリソン号をモリソンという人だと誤解しているとか。自分は記憶がごちゃごちゃのくせに、他人の間違いにはつっこんでいるところがさすが海舟。ひとごととは思われないので、好き。

しかし、この海舟がツッコミを入れている「モリソンという人」は、この頃既に中国に入っているアメリカ人宣教師によるモリソン・エデュケーション・ソサエティの創始者で中国初のプロテスタント宣教師、ロバート・モリソンのことではないか、とも思える。

モリソン・エデュケーション・ソサエティは、後に日本へやってきた初期の宣教師として大きな影響を与えたサミュエル・ロビン・ブラウンが同ミッションで中国へ渡り(1838)、Yung Wingなどの中国人を教育した学校建設の発端になっている機関である。

 

モリソン号と音吉(乙吉)(米独英)

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