1845年、エドワード・ベルチャー率いる英国フリゲート戦艦サマラン号が長崎に来航。沿岸で4日間測量などをして、大問題になったという。

ベルチャーは後に英国ロイヤルネイビーの提督となり、Knight Commanderでサーの称号を得ているため、彼とサマラン号の記事は少なくないが、日本来航に関する英語の記事は大変少ない。この船は東南アジアと太平洋の探検観測を主に行っていたらしく、フィリピンやボルネオなどの動植物や原語、文化を調査していた流れで琉球、宮古島、八重山諸島等にもやって来たという。これが1843年のことらしい。

一つ長崎に入って来たという話をみつけたが、目的は食料、水の補給ということで、日本側の記述にある「長崎で測量をしていた」という話がみつからない。この文章は、版権の切れた昔の文章を子供向けの教材として集めているボールドウィン・プロジェクトというサイトにあるRobert Van Bergenの書いたイギリスの日本来航に関する記事だが、浦賀で砲撃されたというモリソン号が九州で砲撃されているという記述があったりして、信頼性は怪しい...のか、こっちが真実なのか不明。

サマラン号の後にフランスのクレオパトラ号で英国のセシル提督がやってくるが(なんでフランスの船で来たの か、現在不明)、そのときに、日本人が、個人的な意見として、内緒話で、日本人は開港を望んでいるんだが、幕府が許さない、なんでかっつーと、幕府が倒れるかも知れないから...と言ったと書いてあるのだが、これはアーネスト・サトウに伊藤博文が言ったのと良く似てますが、混同してないでしょうか?この時点で、外国と通商すると幕府が倒れることまで考えられた日本人は誰なんでしょうか?大体、このセシルという女みたいな名前の提督の船には、オランダ語がわかる船員がいたんでしょうか?英語で内緒話なんかできる日本人は、この時代にはいません。オランダ語の通詞でも、こんなことをイギリス人の耳に囁いたりするような大それた人がいたのだったら是非知りたい。

と思っていたところ、吉村昭氏の「海の祭礼」に、サマラン号が来たときに、日本人通詞たちが、オランダ語のわかる兵隊、中国人船員と会話した話が載っている。イギリスは、条約交渉のときには早くも音吉を通訳に連れて来るので、その「日の沈むところない」領土から、中国人やオランダ人を連れて来るのはわけないので、連れて来たんでしょうな。日本側の情報提供者が誰なのか、是非知りたいので、更に情報を探りたい。

ところで、このベルチャーという人は、生まれたのが現在カナダのノバ・スコッティアだそうなので、カナダの偉人にもなっているようだ。なんでも、気性が激しく、人好きのしないタイプだったということが、いろんなところに書いてある。日本に限らず、観測探査に功績があった人だそうだが、観測探査がフリゲート戦艦(スループ戦艦とも。どっちにしても20~30門くらいの大砲搭載)だっつーから弱ってしまうじゃありませんか。そんなもんでイギリスから太平洋を探りに来てるっつーのが、もう、それだけで勝ち目がないと思うわたしは戦後の日本人なのだろうね。

この時代、イギリスの船はものすごい頻度で琉球に来ているので、薩摩藩は当然その脅威を知っていたはずである。江戸の人である私は、幕末の薩摩の事情を殆ど知らないのだが、水戸や越前、佐賀、長州、土佐のように、外国の脅威が直接感じられる藩から開明的に啓蒙されて行くのは当然というところだろう。

リンク

共にサマラン号の調査資料

薩摩の船(日本の警備陣というタイトルだけど、この旗印は薩摩の船だと思う)
http://dlxs.library.cornell.edu/cgi/t/text/pageviewer-idx?c=sea;idno=sea262b;view=image;seq=15

よくわからん日本人(琉球の人でしょうか?)
http://dlxs.library.cornell.edu/cgi/t/text/pageviewer-idx?c=sea;idno=sea262b;view=image;seq=8

 

サマラン号 HMS Samarang(英)

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