1871年10⽉、教育システムの調査でヨーロッパへ渡った畠⼭は、岩倉使節に合流のため、フランスからアメリカへの帰国を命じられる。
畠⼭と同時に、⼤蔵省関係でヨーロッパに渡っていたモンソン留学⽣きっての優等⽣、⼤原礼之助こと、後の初代⽇銀総裁、吉原重俊にも同じく岩倉使節合流の命令が下り、畠⼭と吉原は同じ船でリバプールからNYへ戻って来る。NY着は1872年1⽉28⽇である。
岩倉使節団は、雪のためソルトレイクシティで足止めを食ったせいで当初の予定よりも大幅に遅れ、2月29日にワシントンDCに到着した。当初は通訳、案内などの役目を負って使節団に合流したが、やがて公式の記録係になった久米邦武と共に、各国で公式な取材にあたることになった。