花房義質へ宛てた1868年6月26日付け⼿紙の中で、畠⼭は、5⽉12⽇にハリス教団からの離脱を決意したといい、翌13⽇にはモンソンに向けて出発し、モ ンソンの仲間のもとで3⽇を過ごしたことを伝えている。マサチューセッツ州の中部にあるモンソンには、イギリス留学⽣の翌年に出発した薩摩藩第⼆次⽶国留学⽣と呼ばれる日本人グループがいた。ここでは「モンソン留学⽣」と呼ぶが、メンバー詳細はウィキを参照されたい。
畠⼭はモンソンに着くと、種⼦島(吉田彦麿)、湯地定基を伴って、まず18⽇(?)にNYのFoggという商⼈に⾦策に⾏く。この⼈は、畠⼭の書簡に よれば吉原(大原礼之助)、種⼦島の学費等の⾯倒を⾒ていたそうだ。結果的には、畠⼭への⾦銭援助をするような話は聞いていない、ということで⾦策はうまく⾏かず、畠⼭はニューブランズウィックへ向かい、フェリスとオランダ改⾰派教会の援助によって、ラトガース⼤学で復学することになる。
Fogg、フェリスについての詳細は別項を参照されたいが、Foggというのは、ハーバード⼤学 Fogg美術館のWilliam Hayes Fogg(夫妻は同⼤学の関係者ではなく、Foggは実業家)であると思われる。中国、⽇本の美術品他の輸⼊で⼤成功を収めた実業家である。彼の死後、夫⼈から寄贈されたFoggの遺品によって、同美術館が創設された。仁礼景範の⽇記や畠⼭の書簡などでは、ホークと書かれていることが多い。薩藩海軍史 の松村の回顧談には「ウィリアム」という援助者が出て来るが、これはFoggのことなのか、フェリスのことを誤って記憶しているのか、或いはその後のフレンチなのかは不明。名前が「ウィリアム」なのはFoggだが、畠⼭の説明と松村の説明での印象がやや違うため、⾃分は松村のいう親切な援助者はFoggの ことではないと考える。
畠⼭はNYのFoggのもとからニューブランズウィックへ向かう際、種⼦島とは別れているようだが、湯地が⼀緒なのか、畠⼭⼀⼈であるのかは不明。ニューブランズウィックでは、既にラトガースに通っている⽇下部、横井兄弟に会い、恐らくは彼等の紹介で、再びNYへ出て(ニューブランズウィックとNYは列⾞で1~2時間の距離だが、当時はフェリーを使って海を渡る)、21⽇に、今度は横井兄弟をラトガースへ⼊れたフェリス牧師に会う(フェリスもNYにいたので、モンソン→NY→ニューブランズウィック→NYという⾏程)。
以上は花房宛の⼿紙の内容で、薩摩の家老だった岩下、新納に宛てた⼿紙では、Foggの後にフェリスに会ったように書かれてある。恐らく⾯倒な説明をとばしたのだろう。
ここで不思議なのは、なぜモンソンの仲間から直接借⾦をしないのか?ということだ。
勿論、お互いに留学⽣で⾦銭的に余裕はない⾝とはいえ、寄宿させてやるくらいの融通は利くだろう。数⽇泊めてもらってはいるが、畠⼭や、その後教団を離脱してくる吉⽥や松村も、モンソン滞在の留学⽣に加わってはいない。
書簡等から想像するに、モンソン留学⽣の⽣活費、或いは払い込む学費などは、アメリカ⼈の代理⼈の⼩切⼿で管理されていて、わずかな⽣活費を毎⽉貰うような仕組みだったのではないか、と想像する。この時期(1868年)では、国内全⼟的および国際的に流通する通貨は⽇本にもないがアメリカにもない。だから貿易はメキシコ銀などでやり取りしているが、メキシコ銀では街で新聞とか買えないし、路⾯⾺⾞や船みたいなものにも乗れないわけなので、どうしても銀⾏的な機能、為替的な⼿段が必要になる。で、恐らく、得体の知れない外国⼈であった留学⽣たちは、預⾦は出来るだろうが、⼩切⼿を現⾦化させてもらえないだろうと思う。
この辺り、実情は全くわからないのであくまでも想像だが、21世紀の常識でも、外国⼈が銀⾏で⼩切⼿を現⾦化とかは難しい。もちろんメキシコ銀を持っていればそれを両替しながら⽣活していけるが、重いし危ない。⼩さな町で年中メキシコ銀を交換にくる東洋⼈なんか、泥棒に狙われ放題だろう。従って、モンソン留学⽣の費⽤は、実際に薩摩とFoggの間を銀が⾏ったり来たりしていたのではなく、彼らにかかる経費を⽇本での貿易で相殺していた、と⾃分は考えるが、それをサポートする資料はない。⽇本側で担当しているのは、⻑崎にいる汾陽(かわみなみ)五郎右衛⾨(か?もっと短い名前が あったような?)だろうと思うのだが、これを仲介しているのは坂本⿓⾺の海援隊ではないのか?とも思う。坂本⿓⾺のように有名な⼈は、その筋の専⾨家にお任せするが、海援隊(なり⻲⼭社中なり)の出納簿というのがあったらぜひ⾒たい。
⾃分が思うには、モンソン留学⽣は、全員ではないかもしれないが、薩摩の⽶国貿易のエージェント(の相談役のような仕事)を兼ねていたのではないだろうか。恐らくは、Foggが⽇本に送ってくる商品=武器関係の吟味と交渉役、というような⽴場で仁礼、江夏、モンソンで⾃殺してしまう⽊藤が駐在し、その代⾦相殺の⼀部として、主に吉原、種⼦島、およびその他メンバーの学費の⾯倒を⾒ていたのではないかと想像している。
仁礼も⽇記の中でモンソンアカデミーには通っているので、全員が留学⽣であったのも事実であろうが、種⼦島が妙にフットワークが良いので、ただの留学⽣の⽴場ではなく、現地で仕事をしていたように思えるところからの想像である。
細かいところだが、畠⼭、松村、吉⽥の三⼈は、なぜモンソンではなく、NBへ⾏っ たのか、というところにも疑問がある。
わかりやすいのは、横井兄弟の件(改⾰派教会が資⾦援助した)を知っているモンソン留学⽣が、横井や⽇下部を通じてフェリスを訪ねてみては?と提案したからだろうが、なぜ自分たちがいるモンソンではなく、他藩の⼈間がいるところへ⾏ったのか。
プロジェクトとして、モンソンにいた留学⽣と畠⼭らのグループは全くの別⼝なのだろう、というのが私の予想だ。この⼆つのグループは結果としてオランダ改⾰派教会という同じ⼈脈に通じたが、畠⼭らは当初、イギリス、フランスに向けて、ジャーディン&マセソンを介して出かけたところにその違いの源があるのかもしれない。