ハリス教団を去った畠山は、ニュージャージー州ニューブランズウィックにあるラトガース・カレッジに進学を決めた。
そこには既にフルベッキの紹介で同地にいた横井兄弟(横井小楠の甥で左平太、大平の兄弟。アメリカでの変名は伊勢佐太郎、沼川三郎)、日下部太郎(福井藩)、そして勝海舟の長男である小鹿と、彼に同行した富田鉄之介(仙台藩)と高木三郎(鶴岡藩)がおり、また、薩摩から共にイギリス留学からハリス教団での生活を共にした吉田清成(永井五百介)、松村淳蔵が畠山を追って来て合流し、彼らと共に留学生活を送る。
彼らを先頭に、その後、岩倉使節団の到着する1872年頃にはラトガース周辺には50人ともいわれる留学生が集った。
現在は州立大学としてニューブランズウィック周辺にいくつかのキャンパスを持つ広大なUniversityであるラトガースは、畠山らがいた当時はオランダ改革派教会と深く結びつき、現在も存在するTheological Seminaryはラトガースの神学校として存在していた。多くの日本人留学生はラトガース・カレッジの予備門的な存在であったラトガース・グラマースクールをはじめ、周辺の学校(現在の制度では高校に相当するような教育機関)で勉学に励んだ。
横井左平太(伊勢佐太郎)
薩摩藩留学生の松村淳蔵と共にアナポリス海軍士官学校に進学するが、退学し帰国した。
横井大平(沼川三郎)
佐太郎の弟。のちに結核のため帰国後、熊本に戻り、ジェーンズ教師を招き、熊本バンドの基礎を築いた。
日下部太郎
越前福井藩から送り出され、優秀な成績をおさめるも卒業間際に結核で死亡。ラトガースはそれまでの成績を称え、優等生として卒業証書を送った。
勝小鹿
幕臣・勝海舟の長男。アナポリス海軍士官学校に入り、何度も落第と留年しながらも卒業し、帰国後は海軍士官となった。
富田鉄之介(仙台藩)
勝海舟の弟子として知られるが、アメリカではニュージャージー州ニューアークの商業学校で学び、その学校の主催者であったウィットニー家に下宿。のちにウィットニー家は日本へやってきて、長女クララが小鹿の異母弟の梶梅太郎と結婚した。
ニューヨーク領事を勤めた後、日本へ帰国し、初代吉原重俊を支えて二代日銀総裁を務めた。
高木三郎(鶴岡藩)
冨田と共に勝小鹿の補佐役として渡米。ラトガース周辺にいたが通っていた学校などは不明。森有礼がワシントンDCの日本公使館に赴任した後、公使館員を務め、のちにサンフランシスコ領事となった。
ウィキの薩摩藩第二次米国留学生を参照されたい。
吉田清成(永井五百介)
金欠でラトガースを離れ、独立を志したが、日本からイギリスとの鉄道関連の問題で派遣されてきた上野景範に同行して渡英。数ヶ月後に帰国し、大蔵省高官となり岩倉使節団に後発で合流。その後は駐米日本大使を務めた。
松村淳蔵(市来政徳、市村勘十郎)
アナポリス海軍士官学校に入学、ストレートで卒業した第一号となった。帰国後は海軍士官学校長を務め、同校の確立に大きく貢献した。
マサチューセッツ州アマースト大学、アンドーヴァー神学校を卒業した後は周知のとおり。畠山らがいた時代から岩倉使節団に随行した当時には特にモンソンにいた留学生らと交流があり、湯地定基などに大きな影響を与えた。