公文書館アーカイブの太政官の記録では、壬申(明治5年)2月に、教育の仕組みを作るのに外国人を雇おうという話があって、岩倉使節にその人選が託されていた、とある。
ところが、これが書かれている文書は明治5年年7月29日(1872/9/1)の日付けで、「文部省雇外国人一名を減し大学校教頭を雇入る六年六月に至り教頭モルレー着港す」という見出になっている。
6年6月(30日)に来た人を5年の7月29日付で記録するのはどうかと思うが、つまり、以前から外国人雇用の予定だった、それは岩倉使節の人選で明治5年の7月29日に決定した、そして6年6月に来た、ということを述べていて、モルレー招聘の経緯をまとめた記録なのだろう。
別の文書として、明治5年2月25日の日付けで、文部省から、「独仏から一人ずつ、米英から一人の計3人の外国人を文部省に雇いたいので、岩倉使節に人選を頼んでもらいたい」という伺いが太政官にあり、翌日認められている。
これが上記で言っている、「2月に出た岩倉使節への依頼」の内容であろう。
この文書には、外国人選抜の伺いの後、少弁務使と外国人との間で交わす契約の雛形が書かれている。アメリカの少弁務使は森だから、つまり、アメリカだけのことを考えると、これは森と外国人の間の契約書の雛形ということになり、文部省に雇い入れる外国人の人選は岩倉使節に、その契約は森に任された、ということになる。
明治5年の2月25日というと、1872年の4月2日あたりになる。72年3月21日にNYを出て日本へ向かったと思われる大久保と伊藤は、辛うじてサンフランシスコにいるか、或いは太平洋の上だ。であれば、この文部省の伺いは、電報であれ、手紙の郵送であれ、大久保と伊藤とは入れ違いに使節に着いているのだろう。手紙であれば5月11日には新島襄と共にアメリカを離れてしまう文部省からの最高責任者・田中不二麿にも伝わっていないかも知れない。
したがって、この依頼は文部関係責任者の木戸に直接届き、それがため、木戸の意思が多大に影響してモルレーの採用に傾いたのではないだろうか。決定は木戸が下して、実質的な手続きを森に託してアメリカを離れたと自分は見ている見る。
実際には、森もモルレー採用の契約締結日(明治6=1873年3月15日)にはアメリカにはいない。モルレーが日本に発つ際の領事役は高木三郎であることはモルレー夫妻壮瞥の地元新聞等にも見えているが、契約のサインは田中である。つまり、モルレー雇用の契約は田中とモルレーが同席してサインしたものであれば、それは使節がアメリカを離れる前で、日付は後で入れたことになる。或いは、田中がヨーロッパでサインしたものを誰かがモルレーに届け、モルレーが3月15日にサインしたのかも知れない。実際の契約署名日は不明である。(英語の契約をどこかで見た記憶もあるが・・・。
上記の公文書上でモルレーの来日が決定したと思われる明治5年の7月29日というのは、フルベッキの文部省の雇用延長が決められた日でもある。政府は新たにその役に付く外国人の雇用を約束し、だから着任まではなんとか頼む、とフルベッキの雇用を延長した、ということだろうか。
岩倉使節団を派遣した留守政府は、強力な佐賀閥になっている。長崎が佐賀の管轄であることや、大隈、副島とフルベッキの関係から考えても、フルベッキが政府のトップに影響力を持っていたことは容易に想像できるし、実際、1869年に大阪で小松帯刀や副島らと会ってからのフルベッキは政府の外国関連のあれこれの全ての顧問である。モルレーは赴任が決まってからの手紙で、日本にはフルベッキもいるので心強いと言っているが、日本に到着後のモルレーとフルベッキには、少なくとも77年はじめ頃までは接触があったようには見えない。
一方の森は森で、コネチカットのノースラップという人を採用しようとしていたので、森には反改革派教会的な意思があったとも考えられる。
モルレーは畠山がいたラトガース大学の教授であり、大学のあるニューブランズウィックにはラトガースのグラマースクールに通う横井兄弟、岩倉兄弟等をはじめ大勢の日本人がいた。特に、妻のマーサは教会で日曜学校の先生をしており、日本人留学生の多くがこの日曜学校に通っていた。
日本到着後のマーサから親戚に宛てた手紙を読むと、その親戚のもとに勝小鹿が寄宿していたであろうことがわかるし、共通の知り合いという様子で日本人留学生について話している。
また、日本到着後にモルレー夫妻はアサヒ(岩倉具定)を訪ねるが、外遊中の岩倉具視にかわって岩倉家を預かる具定の歓迎ぶりを見ても、使節が来る以前から、モルレー夫妻と日本人留学生は近しい関係にあったことがわかる。岩倉具視をトップにした政府が出来上がっていたなら、政府高官であるべき(既に死去)横井小楠の甥兄弟と自分の息子が世話になっているモルレー教授夫妻は、森の勧めるノースラップの件があってもなくても、岩倉にとっても候補の筆頭であってなんら不思議はない。
森に対する不信がノースラップでなくモルレーを選ばせたともいわれるが、むしろ、モルレーを否定するほどの要素はノースラップになかったということだったのではないだろうか。もっとも州の教育長官であったノースラップには、日本に赴任にさほどの関心がなかったのかも知れない。
イギリスについては不明だが、ドイツについては青木周蔵が再三問い合わせているが、値段に折り合いがつかずに招聘されなかった経緯が青木と木戸間の書簡から読み取れる。これは結局、当時の物価の差だろう。留学生がアメリカに集中したのもアメリカの方が生活費も学費も安かったからだ。
これらのいろいろがモルレーを採用した背景にあるだろう。