憲法翻訳勉強会で⽊⼾に格別の信頼を得た畠⼭はその後、帰国まで岩倉について各国をまわるが、⼤久保とはどのような関係であったのだろうか。
畠⼭と⼤久保は、家格で⾔えば畠⼭の⽅が全然上だ。養⼦⼊りして相続した畠⼭家は⼀所持格だが、畠⼭は調所広郷と共に家⽼を務めた島津⽯⾒の孫とみえ、実家は⼀所持で更に上である。
薩摩藩⼠である畠⼭には、密航出国の時点から⼤久保が関わっていたのは当然だろう。しかし、⼤久保は留学に関する直接の担当者ではないだろう。畠⼭がイギリスやアメリカから⼿紙を出しているのは新納や岩左こと岩下左次右衛⾨、或いは⼩松帯⼑で、⼤久保には連絡している様⼦はない。⾃分が思うに、⻄郷や⼤久保は管轄が違うのだろう。
畠⼭が使節の書記官になるにあたっては、⼤久保がヨーロッパから呼び戻した可能性もあるだろうが、⾃分は、岩倉使節として直接関わるこの時点までは、⼤久保は畠⼭に特別の関⼼を持っていないと思う。⼤久保にとっての畠⼭は、学のある真⾯⽬な留学⽣のぼっちゃん程度の評価だったのではなかろうか。畠⼭には、久⽶をして学者と⾔わせる知識や考察⼒があったろうが、⽬敏いところがないし、学業的には吉原や松村の⽅が優秀であったように思う。森や吉⽥等、他の薩摩からの留学⽣と⽐べても、それほど⼤久保の⽬を引く存在ではなかったろうと思うのだ。
しかし、⽇本へ⼀時帰国する⼤久保と伊藤を送ってNYまでついて⾏った畠⼭は、⽇本から戻って来た際も、⼤久保をピッツバーグまで迎えに⾏く。
久⽶の話によれば、⼤久保、伊藤の留守中に⽊⼾は条約改正中⽌に意向を変え、その変更を伝えるべく、畠⼭を伝令に送ったのだそうだ。⽇本まで戻り、あらゆる反対を押し切って天皇からの正式委任を⼿に⼊れて来た⼤久保は、畠⼭の出迎えによって、それが無駄な使い⾛りであったと知らされるわけだ。
ここでキレなかったのだから、⼤久保はエラい。と思っていたが、実際には大久保は到着時には条約改正交渉を中止したことを知っていないとおかしいのだが、何にしろ、⼤久保は⽊⼾の変⼼を受け⼊れたことになる。単に度量が広いということだけでなく、そこから再び争議を繰り広げなかった⼤久保の瞬間的な判断⼒と決断⼒は、並の⼈間のものではない。
だって、往復だけで2か⽉くらいかかるんですぜ。これが⼤久保でなく、⽊⼾が往復している⽅だったら、いきなり⾏⽅不明にでもなりそうなキレ⽅でグレただろう。明治政府の重鎮でも何でもない、21世紀に⾶⾏機で往復できる⾃分であっても、ワシントンDCから⽇本まで往復して無駄⾜だったら間違いなくキレる。わだかまらない⽅が異常だ。しかも、そんな交渉を⽇本でまとめて勅状を出させ、アメリカまで早急に引き返さなければならない⼤久保の苦労たるや、想像を絶するではないか。
⽊⼾と⼤久保の関係もこの辺から微妙になるだろうが、畠⼭と⼤久保の関係も、この辺で早くも微妙になってしまってしかるべきだ。しかしその後、畠⼭が⼤久保に嫌われたか、といえばそうではなく、久⽶によれば、畠⼭は⼤久保には⼤変かわいがられて、帰国後には⼤久保の家にしばらく居候していたという。その頃に頻繁に畠⼭を訪ねて論議していた久⽶と畠⼭を、⼤久保が優しい眼差しで⾒守っていたという話が、講談社学術⽂庫の「⼤久保利通」に出ている。更に、家を建ててもらったそうだから、随分な好意を持たれていたことになる。
日本へ帰国した後だが、⼤久保の書簡に「息⼦に関する⼿紙が読めないからお忙しいとこ誠に申し訳ないがちょっくら読んでくれませんか」などという⼿紙もある。
こうして、⽊⼾、⼤久保に認められた畠⼭は、息⼦の友⼈でもあり、元々は⾃分の書記官であった久⽶とも親しいこともあり、同じ⾞両に乗って移動する団長の岩倉にとっても有能と評価されただろう。畠⼭のその後の出世は、岩倉、⽊⼾、⼤久保に個⼈的な信頼を得た岩倉使節への合流直後に約束されたわけだ。
岩倉旅⾏は、⼤久保>⽊⼾>岩倉の順で、それぞれがばらばらに帰国するが、畠⼭は久⽶、岩倉と共に、1873年9⽉13⽇、約8年半ぶりに⽇本の地に戻ることになる。