ニュージャージー⼤学(現在のプリンストン⼤学)留学準備のためプリンストンにいる折⽥彦市が(コーウィンという改⾰派教会関係者の家に通っているので、この時期に折田が住んでいるのはミルストンかも知れない)、最上五郎に聞いた話として、畠⼭と⼤原がアメリカへ戻って来ることを1⽉20⽇の⽇記に綴っている。
岩倉使節のサンフランシスコ到着は72年の1⽉15⽇なので、畠⼭がNYへ戻った頃には、既に岩倉⼀⾏はアメリカには着いている。そして、⼀⾏のワシントン到着直後(恐らく、合流した翌々⽇くらい)に、畠⼭と吉原重俊(留学時の変名・大原礼之助)の⼆⼈は岩倉使節の三等書記官に任命された。従って、畠山と吉原は、ロンドンを出る時点では岩倉使節に正式に随⾏する⽴場として出発しておらず、アメリカでの現地雇いの通訳ガイドといった任務が二人の見込んだ仕事であっただろう。それが、合流するなり三等書記官になった、ということのようだ。
久⽶邦武は岩倉⼀⾏の視察旅⾏を記した「⽶欧回覧実記」の前書きに、「諸場館に於て記述せる所は、其⾏⾛の際に、親しく審問せるを録す、此に当て、畠⼭⽒実に其慇懃をつくしたり」と書いている。つまり、回覧実記は、筆者は久⽶で、いろんなところへ⾏ってインタビューしたのは畠⼭だ、ということになる。「実にその慇懃をつくし」ている、という表現に、畠⼭らしい様⼦と、畠⼭を⼀貫して「ごく正直で真摯な学者」と称した久⽶の畠⼭に対する評価が伺える。アメリカ⼈の⽅では、マーリーやクラークが、⽇本帰国後に、岩倉使節の報告作成に忙殺されている様⼦を告げているが、畠⼭が回覧実記に直接的に関わったという⽇本側の記述はこれ以外には知らないので、この前書きを残してくれた久⽶の友情に感謝だ。
岩倉使節団は1⽉15⽇にサンフランシスコに到着するのだが、ユタで⼤雪のため⾜留めを⾷って当初の予定から⼤幅に遅れ、ワシントンDCには2⽉29⽇になってようやく到着する。⽊⼾⽇記では、畠⼭は、⻑州の名和道⼀(緩)と共に、前⽇の28⽇、ピッツバーグで合流している。名和は⻑州⼈で、森有礼と共にワシントンDCの⽇本公使館に赴任し、当時の領事館員のような職にあった。
名和は、当時ラトガースにいる服部⼀三の養⽗(養⼦関係)で、岩倉使節がアメリカを離れた後には、ボストン⼤学(ユニバーシティの⽅。ボストンは、ユニバーシティとカレッジとあって、別の学校)に⼊るが、1873年暮れにアメリカで病気のために亡くなってしまう。
岩倉使節には、各地で現地留学⽣が公式、⾮公式に補佐した。アメリカでは、ボストン近郊から新島襄が主に⽥中不⼆麿を補佐し、畠山、吉原と同様に三等書記を任命されたし、アナポリスにいた松村淳蔵が夏休みでイギリスまで随⾏したり、ラトガース⼤学へ⼊ったばかりと思われる元海援隊の⽩峰駿⾺(渡⽶はもっと前なので、恐らくそれまではグラマースクールか近隣の学校にいたと見られる。白峰はなんだかんだ日米間を2度以上往復している)も、肥後の安場保和に随いて帰国している。
ウォームリー・ハウス (ワシントンDC)
畠⼭がDCで滞在していたのは、久⽶の談によればウォームリーハウス(左)だという。久⽶も、その後、ここへ宿替えをしたそうだ。
ウォームリーハウスは、現在は建物はないが、当時、⿊⼈がオーナーで⿊⼈史跡としても知られており、記念碑があるようだ。回覧実記ではなく、久⽶の回想録にもこのことは紹介されている。
⽊⼾らの泊まっていたアーリントンホテルからは、ほぼ隣のブロックで⾮常に近い。ウォームリーハウスと呼ばれている場合と、ウォームリーホテルと呼ばれている場合と、両⽅あるが、⽊⼾、久⽶は⼆⼈ともハウスと書いている。後年は⾼級ホテルになるようだが、71年に開業らしいので、岩倉使節の⾏く頃には開業間もない。ホテルともハウスとも呼ばれているところから考えると、当初はボーディングハウス(⻑期滞在者⽤の間貸し施設)だったのが、徐々にホテル(旅⾏者⽤ホテル)になって⾏ったか、⻑期滞在者⽤と旅⾏者⽤、両⽅の施設を持っていたのかもしれない。特に定義があるわけではないが、この当時の呼称としては、ホテルの⽅が⾼級な感じがする。畠⼭がいたのは、その⻑期滞在者⽤の⽅で「ハウス」なのではないかと考えているが、詳しいことは現在は不明。
短期滞在のホテル泊まりでなかったと思うのは、久⽶が畠⼭の「下宿」「家」へ⾏ったと称していて、彼の滞在先であるホテルを表す「寓」とは⾔っていないことによるが、この⽇本語理解は正しくないかも知れない。⾃分が思うに、畠⼭の岩倉使節書記官の雇⽤は、政府の役⼈になるような意味ではないと思う。先に帰国した他の留学⽣の肩書から考えても、元々⾝分の⾼い畠⼭がそんな低い位置で役⼈にはなるまい。臨時的な肩書きとしての三等書記官ではないかと思う。アメリカで岩倉使節の通訳をしている頃の畠⼭は、新聞等にも「ラトガースに在学中」と書かれていることが多いので、そう取れる表現を畠⼭がしていたのだろう。恐らく、ヨーロッパの教育⾒学は岩倉使節が担当することもあり、畠⼭自身は、使節がイギリスに渡った後は、⾃分はアメリカに残って復学できると踏んでいたのではないか、と思う。
しかし、結果としては、畠⼭は岩倉使節団に加わり、⽶国政府との条約改正会議にも通訳として参加し(⽇本の記録に最後の交渉に通訳として名前がある)、岩倉⼤使に随⾏してヨーロッパを回り、岩倉と共に⽇本へ帰国することになるのでラトガースへは戻れなかった。
畠⼭についての数少ない紹介では、時々「ラトガース⼤学卒業」と書かれていることがあるが、畠⼭はラトガース⼤学は卒業していない。後にフィラデルフィア万博で渡⽶した際に名誉修⼠号を受け、それが公式記録として残っているため、このことが畠⼭はラトガースを「卒業」したと勘違いさせているようだ。
書記官としての肩書が三等から昇格したかどうかは知らないが、アメリカを離れる頃には、フィッシュ国務⻑官との会談に公式通訳として出席しているので、役割としては⼀等書記官の⽴場であろう。アメリカからイギリスへの出港地であるボストンでは⼀⾏を代表して挨拶のスピーチもしているのだから、仕事内容としては、その他⼤勢の通訳の⼀⼈ではなく、筆頭的な位置に上がっているといえる。どう低く⾒積もっても、岩倉使節幹部に直接その実⼒を認められたということだ。
畠⼭の岩倉使節合流には、当然、森も関わっているのだろうが、多分、岩倉の息⼦も関わっているだろう、と思う。岩倉の三⼈の息⼦と娘婿の⼾⽥⽒共は、岩倉使節渡⽶当時アメリカにいた。岩倉兄弟も⼾⽥もラトガース⼤学の名簿には載っていないので、グラマースクールにいたようだ。アメリカでタツと呼ばれている三男の具経は、この時期、折⽥の⽇記にもよく出て来て留学生たちと交流していたことがわかる。岩倉が息⼦から⽿にする評判も、その後の畠⼭の出世には影響しているだろう。岩倉使節に合流してからは、⽊⼾、⼤久保に直接認められていく畠⼭だが、岩倉具視にとっても、息⼦の友⼈として、直接的に評価を下しやすい存在でもあったわけだ。