明治になってから、渡って来た⽯橋を引き返してまでも叩く傾向を強めた⽊⼾孝允は、条約改正決⾏案の出た当初から、条約改正決⾏は尚早ではないか、と思い悩む。そうこうするうちに、⼤久保と伊藤が急遽帰国して不在になり、いよいよ森や伊藤の⼀派に引きずられたのではないか、という思いを濃くして⾏く。それでなくとも、洋⾏経験のある元幕府の書記官たちや、現地の留学⽣の⻄洋かぶれぶりに辟易していた⽊⼾と、森は対⽴する。⽊⼾がこの時期にワシントンで森に憤慨している様⼦は、⽊⼾⽇記にもあるのでよく知られている。
それまでは伊藤が間に⼊るのでワンクッション置いて⽊⼾に⼊ってきた森の意⾒は、伊藤がいなくなってしまったために、いきなり⽊⼾の顔⾯を直撃することになった。条約改正問題もさることながら、なんなんだ、こいつはっ!?という気持ちに、それまでの不⾃由な⻄洋暮らしの毎⽇の不満が、⼀気に集約されていったとしても、まぁ無理もない。
森は「有礼」の名から、「ゆうれい」とも呼ばれていて、それが幽霊坂の謂れにもなったりもしているらしいが、⽊⼾は、これは帰国後だが、⽇記で森「無礼」と命名しているらしい。⾃分が⾒ている英語版の⽊⼾⽇記にはそれに⾔及したところがないのだが、⽊⼾の森に対する思いを簡潔に表した秀作(?)である。岩倉使節の視察に訪れる地で、畠⼭が「慇懃に」いろんなことを尋ねたと久⽶が⾔っているが、現在の⽇本語としては「慇懃無礼」と、無礼が付いた⾔葉の⽅が使われている。畠⼭と森を合わせると「慇懃無礼」になるのだな、と笑ってしまうではないか。ともあれ、⽊⼾が腹を⽴ているのは、森の意⾒そのものよりも、無礼な態度であったろう、と⾃分は思うのだ。
⽊⼾周辺のおっさんたちは、当時、開明に⾛る若⼿の⻄洋主義者を「アラビア⾺」と称し、井上馨などは⾃分で⾃分をアラビア⾺だと⾔っている。若⼿とはいえない年代の⽊⼾としては、彼等の突っ⾛りには、とりあえず待ったをかけたい思いが強い。⽊⼾ブレーンの⻑三洲は、「皇国の⼈⺠は⻄洋⼈に⽐すれば数百倍の不開化なるに、政府の官員は⻄洋⼈よりは数百倍の早開化なるに困る」と⽊⼾に再三⾔ったそうだが、これが⽊⼾周辺のおっさんらの意⾒を代表していると思う。⻄洋⼈が300年かけてやったことを、今すぐ、脇⽬もふらずにやってしまおうとしているところに、おっさんらの危惧はあったのだ。
しかし、その⽊⼾周辺のおっさんらは、無闇に開化を否定する派ではなく、⻄洋に対して無知蒙昧な輩でもない。
学制に関わる⻑三洲は、⽊⼾が洋⾏したことで、それまで求めてもなかなか⼊ってこなかった各国の教育の様⼦が知されることを喜び、報告を待ち望んでいる。⻑州ファイブの伊藤、井上、更に⼯部省での仕事や後に⼦供(養⼦だが)同⼠が結婚する山尾庸三と⽊⼾との関係も衆知の通りだが、⽊⼾が親しい年⻑者に伊勢華がいる。
⻑州が幕末に朝敵となって⼤阪の藩邸を明け渡すときに、その作法が⾒事であったと海⾈が称えている⼈だが、明治になってからは、主に、忙しい⽊⼾を呼び出しては、⾻董や書画の趣味に引きずり込む役を果たしている。その伊勢の弟は、咸臨丸のときの使節本隊に随いて渡⽶した幕府外国使節第⼀号の⼀員である。⻑と共に、⽊⼾のプライベートな親友であると思う杉孫七郎も、咸臨丸に続いて欧州へ送られた使節で福沢諭吉らと共に渡欧している。⽊⼾よりもやや年⻑だが、公私にわたって親しかった宍⼾璣は、安政はじめに、お庭番の村垣範正についていち早く蝦夷地を⾒学している。⾼杉晋作が短期旅⾏とはいえ、上海に渡ったことは有名だが、前述の通り、⼀時期養⼦として弟であった従兄弟の南貞助は、畠⼭らがいる時期にイギリスに留学していた。
⽊⼾の周りには、それもごくごく近しい⼈々に、既に外国、⻄洋を実地に⾒ている⼈が⼤勢いた。彼等は、⻄洋を知らないのでも、否定していたのでもない。むしろ、⻄洋から学ぶ⽅向を採⽤し、アラビア⾺を⽣み出した原動⼒なのだ。
ああ、それなのにそれなのに、それから10年ほどが嵐のように過ぎ去り、突っ⾛る体⼒は衰え、活動的にはひと段落ついてしまい、考える前に⾏動してしまっていた⻘年の時代を過ぎ、⾏動よりも考えよりも、まず、⽴ったり座ったりが⾯倒で、とりあえずお茶うけがグチ、というお年頃にさしかかっていた。
しかし、彼等には、俺らはシンザンやハイセイコーと⾛ったんだかんな、ナメんなよ、という⾃負もある。彼等の「アラビア⾺」に対する批判は、まず、それについて⾏けない体⼒気⼒の衰えに侘び寂びの妙味を感じるべきで、主義主張に対する反感を読み取るのはちょっと違うと思うのだ。
⽊⼾は、⻄洋⽂明を理解し、その導⼊に⼤きく貢献したが、個⼈的には、おっさん仲間ときれいどころも交えて酒を飲みながら、南画を愛で、詩を詠んで植⽊を買いまくるような、江⼾時代的な⽣活を満喫したい⽅向の⼈だろう。渡辺昇を道連れにしないと髷を落とせなかったり、⻄洋⼈が「⼥性崇拝主義」だと辟易したりしていて、個⼈的な感覚のレベルでは特に開明的でもなく、⻄洋嗜好もない。かといって、やらねばならない以上はノリがいい性格ではある。
⼀⽅の森は、攘夷熱に感染しなかった世代なのだろう。森にとっての⻄洋は、脅威でなく驚異であったのだろう。
森は畠⼭とは違い、若いうちから洋学に親しんで、学⽣のまま欧⽶へ来てしまい、社会⼈経験がないと思われる。ブロクトンから帰国し、アメリカ赴任までの間に政府に出仕しているが、洋学者の需要が供給を多⼤に上回っている時期であり、超特進的に出世していることから考えても、特別待遇の就職であったろう。実際、薩摩の学⽣から選抜されて留学⽣に加わった森は、⾶び抜けて優秀なのには違いないのだから、そういう経歴の⻘年が慇懃なわけがない。
アメリカ⼈というのは、「盗⼈にも三分の理」などと奥ゆかしいことを⾔う⽇本⼈とは基本的に異なる育ち⽅をするため、盗⼈も、10割強でテメーの理屈を述べる。⽇本では空気を読むことが重要だが、アメリカ⼈は空気を作ることの⽅に価値を置く。他⼈の意⾒を聞いてから⾃分の意⾒を調整しようなどという思いやりは、得てしてダブルスタンダードとされて⾮難の対象になる。他⼈の意⾒よりも⾃分の意⾒を聞け!という⽅向で攻めてくるのがアメリカ⼈で、森は多分にアメリカ⼈的だ。アメリカ⼈の議論は、合意点を⾒出すためのものではなく、お互いの⾔い分を突き進めるためにある。⾔いたいことを⾔いたいだけ⾔って、それからいよいよ話し合いということになるのがアメリカ⼈だ。
恐らく、そういうアメリカ傾向の⼤きい森は、挨拶もそこそこに、いきなり本題、しかも昨⽇ダメ出ししたのと同じ意⾒、その上タメ⼝、という姿勢で攻めて行ったのだろう。
いまでこそ、アメリカの合理主義と三段論法で攻めてくるタイプは、若いうちにアメリカに来た優秀な⽇本⼈にありがちだが、この時代には森以外に⽇本全⼟に何⼈いるか、という状況なのだから、⽊⼾をはじめとするおぢさんがたにはよほど特異に⾒えたに違いない。おぢさんには、その意⾒の内容以前に、その若者の体⼒と、異質な迫⼒がウザいのだ。そして、そういう態度で攻めていく森にとっては、意⾒を取沙汰するより前に、箸の上げ下げにこだわるおっさんがウザいのだ。この図式は綿々と続いていて、ピラミッドを作っていた時代のエジプト⼈も「いまの若いモンは」と嘆き、わたしが新⽶社会⼈であった頃も、出る釘は打たれた。世の中というのはそのようにして進むものなのだ。
森と⽊⼾の衝突は、基本的にこれだと思う。
森は、この⽊⼾との衝突の頃、ワシントンでの少弁務使を辞める決意をしたらしい。
林⽵⼆⽒の森研究によれば、明治5年の2⽉に辞表を出しているそうだが、これはどう考えても⽊⼾との衝突が理由だろう。この衝突のありさまをつまびらかに知りたい。知って何かの参考になるとか、そういうことでなく、単に、その喧嘩が⾒たいではないか。⽊⼾は、話の途中で席を⽴って出て⾏ってしまった森に、てめ、このやろ!的な⽂句を⽇記に書いておいたので、後世まで森は森無礼として君臨してしまっているが、森にも森の⾔い分があっただろうから、それを聞きたい。
しかし、結果的には、森はその翌年7⽉頃まで公使役を務めるようで(帰国が⽊⼾と⼀緒で、モルレーとの契約時の公使館代表は⾼⽊三郎なので、公使館をやめた時期は不明)、少弁務使から公使まで短期間に着実に出世している。
つまり、森の辞表は撤回され、おとがめがあったりはしなかったのだ。
森の後ろ楯であるはずの⼤久保、意⾒を同じくする伊藤がいない時期のワシントンで、⽊⼾はそのつもりなら森を更迭出来たはずだが、森は岩倉使節が離れた後もアメリカ駐在を続ける。ワシントンで森の無礼に⾯⾷らっている最中も、⽊⼾は彼の仕事を否定してはいないことになるだろう。
⽊⼾は、森が会議の場を放棄して出て⾏ったことに激しく怒りながらも、その後、個⼈的に⾔い含めた云々などとも⾔っている。この辺が⽊⼾の味わい深いところで、腹は⽴つし、意⾒には同意しないが、んじゃー感情に任せてやめさせるのか?と思えば、論議の場から出て⾏ったのは森の⽅で、⽊⼾はその無責任に怒りながらも、逆に森を引き戻している。
森の⼒量や有⽤性は認めている、ということだろう。
感情だけでものごとを決めるような⽊⼾であれば、この時代まで政府のトップにいられたわけもない。⽊⼾は、⽬の前が真っ暗になるような絶望から何度も這い上がってきた百戦錬磨の政治家なのだ。ちゃぶ台をひっくり返したり、⿊⽥清隆を簀巻きにしたりはしただろうが、森の無礼ごときで判断を誤りはしない。
実際のところ、アメリカに住み、⽇本を代表してアメリカ政府の⼈間に直接的に接触する仕事など、森以上の適任はいないだろう。森は多分、いまアメリカに来ても、外交官なり政治家なりとして充分以上に通⽤するだろうし、第⼀線のビジネスマンとしても⼤活躍出来ると思う。森にはアメリカ⼈、アメリカ政府の勘どころが掴めている。それくらい⾒抜けない⽊⼾ではあるまい。
気に⼊らないといえば、お互いに気に⼊らないのだろうし、接触すればお互いに腹も⽴つのだろうが、森の⽅にも、このおっさんウザっ!とは思いながら、⽊⼾は⾃分の⾔うことを聞いている、という⼿応えはあるのだろう。⽊⼾は⽊⼾で、恐ろしく先進思想の森は、⾔ってみれば超過激なものを先に知っておけば多少の過激がお⼝直しになるような、そういう意味合いでもあるのか、帰国後も決して森とは疎遠になっていない。
何しろ、森と⽊⼾は⼀緒の船で帰国する(マルセイユから)。その上、帰国後も頻繁に⾏き来している。むしろ、お互いの⼒は認め合い、必要とし合っている関係なのだと⾃分は判断している。
恐らく、⽊⼾には、森は仕事に対しては有能であることの裏付けもあったはずだ。その⼀つがモルレー招聘につながる森の尽⼒であるだろうが、森は、留学⽣の管理と共に、アメリカの教育制度その他の調査報告をし、⽇本代表としてアメリカの政府関係者と交際し、⽇本をアメリカ⼈に知らせ、アメリカを⽇本に知らせることについては、その任務を全うしている。
それを無視する⽊⼾ではなかったということだ。