学監を任命されるのは来日後になるが、ラトガース大学の科学、数学の教授であったDavid Murray(ここでは、日本語表記としてもっとも多いと思われるモルレーと呼ぶ)は、夫人のマーサと共に、日本での高等教育の監督というような任務を負って日本へやってくる。
モルレーについては彼と夫人の親戚への書簡を含む文書群がアメリカの国会図書館にあり、多くの大学の図書館にもDavid Murray Papersという名でマイクロフィルム3巻として保管されている。日本のいくつかの大学図書館にもあったと思う。
その中のあまり閲覧されていない個人的な文書群にある、モルレー夫妻の書簡から、以下、二人の日本への旅から日本での生活を紹介する。お断りしておくと、モルレーさんという人は非常な悪筆で、まぁ、読むのが辛い。なので奥さんのマーサさんの方の書簡を主に追って行く。
マーサ夫人の手紙は主にCarpenterという一家に向けて書かれている。カーペンター家はマーサ夫人のおばさん一家にあたり、中でも従姉妹のルーシーという末娘に出されているものが多い。マーサ夫人自身はNeilsonという一家の出だが、こちらもラトガース大学のあるニューブランズウィックの目抜き通りに名前が残っている。
読み進んでいくと、このカーペンター家周辺には、アサヒと呼ばれた岩倉具定(アサヒ・コタロウという変名のため)、Katzと綴られる勝小鹿をはじめ、多くの日本人留学生が接触していたことがわかる。そうと書かれている箇所はないが、彼らは特別な説明なしにマーサ夫人と親戚との書簡に登場するので、どうもマーサ夫人周辺の家庭で下宿していたように思われる。夫のモルレーがラトガース大学の教授であったこともあるが、むしろ日本人留学生たちは、ラトガースに近いオランダ改革派教会で日曜学校の教師をしていたマーサ夫人の方に近しかったようにも思われる。手紙の文面から、夫婦共に明るくユーモアにあふれたポジティブ志向の人であることが伝わるが、日本人留学生たちにとって、うちとけやすいアメリカ人であったことが感じられる。
モルレー夫妻がラトガースのあるニューブランズウィックを発ったのは1873年5月のはじめのことだった。
New York Timesは「今週出発する」というニュースを5月10日号に乗せているが、マーサ夫人の書簡では5月8日にシカゴに到着しているので、出発は5月5日ないし6日、もしかすると7日と考えられる。
上記のNew York Timesには、数日前にお別れ会があって、公使代理でワシントンにいる高木三郎がスピーチを行ったなどが書かれている。この時期の正式の公使は森有礼だが、森は日本に帰国のためヨーロッパで岩倉使節に合流すべく同年の3月にアメリカを出ている。交代要員として着任する矢野ニ郎に、モルレー夫妻はサンフランシスコで出会っている。