シカゴに着いたという手紙の中でマーサ夫人は、Grand Central Hotelに泊まっていると書いている。
そのホテルの住所をGeminiに聞いてみたところ、結論としてGeminiはそのホテルをみつけられなかった。同じ名のホテルが1891年だったかに開業して、こちらは有名だったせいもあるが、1873年にはそんなホテルはないというのが2026年6月現在のGeminiさんのお言葉だった。
しかし、マーサ夫人はこういうところがいい加減な人ではない、ということを知っている自分としては、いろいろ探してこのホテルをつきとめた。
このホテルは、現在のトリビューンタワーの場所に建っていた。インターコンチネンタルホテルがあり、テレビ局のNBCタワーがあり、Appleのストアもある現在のシカゴの一等地だが、当時のシカゴはこのあたりにグランドセントラル、ないし単にセントラルと呼ばれた駅があった。
当時の交通の中心は鉄道に移り変わりつつあったが、ほんの10年前くらいまでは東海岸から五大湖を通り、河川を下るのが長距離移動方法だった。
大火災前に湖岸を走る汽車の図。現在は鉄道駅はもっと西に行ってしまい、湖岸の線路は地下に潜っている。
大火災前のシカゴをミシガン湖の方から見た様子。画面を横切る汽車が発着していると思しき、入口が3つあるビルがセントラル駅。
Chicago illustrated. [Chicago : Jevne & Almini, 1866-67] Public domain
ミシガン湖からシカゴ川につながる部分の高低差を克服する方法には、岩倉使節団の久米邦武も大きく感心したらしく、克明な記録を残している。そのミシガン湖とシカゴ川が合流するあたりにセントラル駅があった。
モルレー夫妻が訪れた当時のシカゴは、Great Fireと呼ばれる1871年の大火災からどうにか立ち直りかけた時期で、前年に同地を訪問した岩倉使節団はその惨状に驚き、5000ドルとも3000ドルともいわれる寄付をしたという。ところがシカゴの近代史はここから始まったと言ってよく、この大災害から見事な復興と発展を遂げていった。
その復興の基礎をになった材木集積の大きな港がシカゴ川とミシガン湖のところにあった。各地から河川で運ばれる材木が集積されている河口の傍にあったのがセントラル駅とも呼ばれるグランドセントラル駅で、その駅に隣接していたのがモルレー夫妻が宿泊したグランドセントラルホテルだった。
ここには、岩倉使節団が来た時にも宿泊したグループがあった。
しかし、数年くらいで駅と河口の開発が進んだのか、経営状況が下降したのか、このホテルは150年後のAIさんがみつけられないような存在になってしまったようだ。といって、火災前にも存在していた様子がないので、ごく短い期間だけセントラル駅に隣接して立っていたようだ。
モルレー夫妻のアメリカ大陸横断旅には、ミス・ヤングマンという女性と、カズエ(Kazuye)という日本人が同行している。
ヤングマンはおそらく日本へ向かう長老派の女性宣教師のケイト・ヤングマンと思われる。「目黒慰廃園」というハンセン病の施設を設立したことなどがウィキに出ている。マーサ夫人はLadiesとよく書いているので、ほかにもヤングマンの同行者がいたと思われる。
カズエという人についてはいまだに不明だが、ブルックリン・ポリテクニクスにKazuye, Tadakuni(Kazuyeが姓でTadakuniが名)それらしい名前の人がいる。ブルックリンにはエラスムス・アカデミーという現在も公立高校として存続する学校があるが、そこに日本人のためのクラスを設ける計画があり、しかしこれは計画だけでたち消えてしまうのだが、その近辺にいた人なので可能性は高いと思う。